キスしたら、彼の本音がうるさい。

D企画で瑛翔にあった翌日。

私はデスクに向かって、モニターを見つめている。
文字は目の前にあるのに、頭の中にはまるで入ってこない。
指先はキーの上にあるだけで、何も打ち込まないまま時間が過ぎていく。

「……浅見さん」

背後からかけられた声に、小さく肩が揺れた。
振り返ると、神崎がいつものように資料を片手に立っていた。

けれど、今日の彼の声はほんの少しだけ低かった。

「……ちゃんと息してますか?」

え、と反応する前に、神崎はいつもの調子に戻る。

「資料、確認お願いできますか? 午後イチの案件です」
「あ、はい。すぐ確認します」

なんでもないような声で返したつもりだった。
けれど自分の声が、わずかに揺れていたのを感じた。

神崎は何も言わずに、そのまま戻っていったけれど──
あの一言だけが、胸に残った。

──ちゃんと息してますか?

そう訊かれるほど、苦しそうに見えていたのかもしれない。

ほんの数日前までは、普通に仕事をしていた。
いや、“普通”にやっているつもりだった。

ちゃんと時間通りに出社して、タスクをこなして、報告して、笑って──。

けれど、再会してしまった。
たった一言、名前を呼ばれることもなく。
まるで最初から、他人だったみたいに。


昼休み、デスクにうつ伏せるふりをして目を閉じた。

暗闇の中に浮かぶのは、昨日の彼の顔だった。

静かに笑うその目は、わたしのことを“知らない”目をしていた。
あの声も、あの姿も、わたしの中には“忘れられない”のに。
彼の中には、わたしが存在していなかった。

《D企画 神谷 瑛翔》

名刺の文字を思い出す。

彼が名乗った瞬間、背筋が凍った感覚は今でも肌に残っている。
──どうして、彼の中からだけ、わたしがいなくなったの?