ふいに吹き込んだ風が、コートの裾を揺らす。
乾いた空気に乗って、わずかに懐かしい香りが鼻先をかすめた気がした。
ほんの少し甘くて、でも清潔感があって。
冬に似合うあの香り
──彼が昔、ずっとつけていた香水の匂い。
それが、変わらずそこにあった。
「浅見さん」
神崎の声に、はっと我に返る。
思わず力が入っていた指先が、名刺ケースをぎゅっと握りしめていたことに気づく。
「……すみません。大丈夫です」
そう答えたものの、声は明らかにいつもと違っていた。
震えてはいない。
けれど、どこか押し殺すような音が混じっていた。
神崎はそれ以上何も聞かず、代わりに手にしていたハンカチを差し出してきた。
白地に細かなステッチが入った、落ち着いたデザイン。
「……?」
月菜は一瞬、首をかしげた。
「別に…今日は泣いてないですよ?」
そう言って苦笑いを浮かべると、神崎は少しだけ視線をそらしながらつぶやいた。
「……風、強かったからな」
その一言に、胸の奥がじんわり熱を持った。
言葉じゃない。
察しでもない。
でも、気づいてくれていた──その事実が、どこまでも優しかった。
ビルのエントランスを出たあたりで、月菜は空を見上げた。
朝と同じ、曇っていないはずの白空。
けれど、今見上げた空の方が、何倍も遠く感じた。
「……神崎さん」
「ん?」
「わたし……こんな感情になるなんて、思ってませんでした」
「……感情?」
「うまく言えないけど……なんか、胸の奥が、ぐちゃぐちゃで……」
言いながら、喉の奥がつかえるようだった。
「──そんな日もあるさ」
神崎はそれだけ言って、ふっと息を吐いた。
「風も強いし、こんな時期だけど花粉もあるかもしれない。まあ、涙くらい出るかもしれない」
そんなふうに冗談めかしてくれるから、余計に涙がこぼれそうになる。
会社に戻るまでの道のり。
神崎はそれ以上、何も聞かなかった。けれどその沈黙が、今はありがたかった。
会社に戻ると、そっとバッグを開けて名刺入れを取り出す。
革のふちが指に触れた瞬間、胸がまた締めつけられた。
開いて、受け取ったばかりの名刺を見つめる。
《D企画 神谷 瑛翔》
たったそれだけの情報が、胸をこんなにも苦しくするなんて、思わなかった。
──忘れられても、わたしは覚えてる。
──言葉が届かなくても、心は叫んでる。
そう思いながら、そっと名刺入れを閉じた。
乾いた空気に乗って、わずかに懐かしい香りが鼻先をかすめた気がした。
ほんの少し甘くて、でも清潔感があって。
冬に似合うあの香り
──彼が昔、ずっとつけていた香水の匂い。
それが、変わらずそこにあった。
「浅見さん」
神崎の声に、はっと我に返る。
思わず力が入っていた指先が、名刺ケースをぎゅっと握りしめていたことに気づく。
「……すみません。大丈夫です」
そう答えたものの、声は明らかにいつもと違っていた。
震えてはいない。
けれど、どこか押し殺すような音が混じっていた。
神崎はそれ以上何も聞かず、代わりに手にしていたハンカチを差し出してきた。
白地に細かなステッチが入った、落ち着いたデザイン。
「……?」
月菜は一瞬、首をかしげた。
「別に…今日は泣いてないですよ?」
そう言って苦笑いを浮かべると、神崎は少しだけ視線をそらしながらつぶやいた。
「……風、強かったからな」
その一言に、胸の奥がじんわり熱を持った。
言葉じゃない。
察しでもない。
でも、気づいてくれていた──その事実が、どこまでも優しかった。
ビルのエントランスを出たあたりで、月菜は空を見上げた。
朝と同じ、曇っていないはずの白空。
けれど、今見上げた空の方が、何倍も遠く感じた。
「……神崎さん」
「ん?」
「わたし……こんな感情になるなんて、思ってませんでした」
「……感情?」
「うまく言えないけど……なんか、胸の奥が、ぐちゃぐちゃで……」
言いながら、喉の奥がつかえるようだった。
「──そんな日もあるさ」
神崎はそれだけ言って、ふっと息を吐いた。
「風も強いし、こんな時期だけど花粉もあるかもしれない。まあ、涙くらい出るかもしれない」
そんなふうに冗談めかしてくれるから、余計に涙がこぼれそうになる。
会社に戻るまでの道のり。
神崎はそれ以上、何も聞かなかった。けれどその沈黙が、今はありがたかった。
会社に戻ると、そっとバッグを開けて名刺入れを取り出す。
革のふちが指に触れた瞬間、胸がまた締めつけられた。
開いて、受け取ったばかりの名刺を見つめる。
《D企画 神谷 瑛翔》
たったそれだけの情報が、胸をこんなにも苦しくするなんて、思わなかった。
──忘れられても、わたしは覚えてる。
──言葉が届かなくても、心は叫んでる。
そう思いながら、そっと名刺入れを閉じた。
