キスしたら、彼の本音がうるさい。

◇ ◇ ◇

玄関のドアを閉めた瞬間、背中に静けさが落ちた。
靴を脱いだ足元が、急に重く感じて、思わず壁に手をついてしまう。

ただの“すれ違い”。
ほんの数秒、目も合わず、声も交わさなかった。
なのに――どうして、こんなにも胸が痛むんだろう。

あの香りを思い出すだけで、
さっきまで保っていたはずの平静が、あっけなく崩れそうになる。

「……違うって思わなきゃいけないのに」

苦し紛れの呟きが、空気の中で虚しく響いた。

でも、わかってしまった。
あれは、きっと――彼だった。

それでも、彼は気づかなかった。
その現実が、何よりも苦しかった。

バッグを手放し、スーツを脱いで洗面所へ向かう。
鏡に映る自分の顔に、赤みが差しているのを見て、やっと気づいた。

──ああ、私は、涙をこらえていたんだ。

洗い流したのは、化粧だけじゃなかった。
手首に残っていた“私自身の香り”も、
一日かけて積み上げた“感情”も、
すべて水と一緒に流れていった気がした。

──だけど
心の奥にだけは、まだあの香りが残っていた。

たった数秒すれ違っただけなのに、
魂のどこかが、確かに覚えている。

ベッドの上に腰を下ろし、スマホを手に取る。
トーク一覧の上位に並ぶ“玲奈”の名前。

しばらく迷ったあと、指が勝手に動いた。

『今日、ちょっとだけしんどい』

すぐに既読がついて、ほんの数秒後に返ってきた。

『また?カフェで語る? それとも、おうち電話?』

クスッと笑って、少しだけ目が潤んだ。

『どっちも今じゃ泣きそうだから、もうちょっとだけ耐える』
『そか。じゃあ今日の夜、寝る前に声聞かせて。おやすみってだけでもいいからさ』

玲奈のそういうところは、
昔から変わらなくて、ずるい。
いつも私の心を見透かしていて、
でも、一度も責めたりしない。

スマホを伏せた瞬間、
また、あの香りが頭をよぎった。

その名前を、声に出すことはできない。
ただ胸の奥に、まだその存在が残っている。

たった一瞬。
ほんの数秒すれ違っただけで、
こんなにも心が崩れるなんて。

忘れたと思っていた心が、
まだちゃんと、彼を覚えていた。

“香りだけで、思い出せてしまうくらいに。”