キスしたら、彼の本音がうるさい。

◇神谷瑛翔◇

部屋に戻っても、さっきの胸のざわつきは、まだ静かに胸の奥に残っていた。
いつもの玄関。
革靴を揃え、コートをかけて、間接照明のスイッチを入れる。

整えられた部屋は、変わらないはずなのに、
今夜はどこか“空っぽ”に感じた。

理由もないのに、何かが欠けているような、そんな感覚。

バッグから手探りで取り出したのは、小さなミニボトル。
手のひらにすっぽり収まるような、細身のガラスの香水瓶。
瑛翔はそれを、じっと見つめる。

その香りは、自分が今纏っているものではない。
けれど――ずっと持ち歩いている。

理由も明確ではないのに、これだけは、なぜか手放せずにいた。
ボトルの中には、やさしい花の甘さと、どこか芯のある香り。

自分の中で何かが動くような気がする、その香り。
大学時代――誰かと一緒に選んだような、そんな朧げな記憶の感触が微かに残っている。

「……お前、誰なんだよ」

小さく呟いた言葉は、自分自身に向けたものか、誰かに向けたものか、はっきりしなかった。

纏っている香水は、今も大学時代からずっと同じもの。
レディースと対になる、メンズラインの香り。
気づけば、今も変えられずにいる。

その“もうひとつの香り”――このミニボトルの中の香りだけは、
肌につけることはなくても、いつもそばに置いていた。

わけもわからず、ただ「必要だ」と思って。
それだけが、ずっと変わらなかった。

ベッドに腰を下ろし、ボトルを静かに見つめる。
駅ですれ違ったあの瞬間――なにも見えなかったのに、香りだけが自分を引き戻してきた。

ほんの数秒。

顔も、声もなかったのに、心の奥では何かが確かに震えた。
そして今も、その余韻だけが、じんわりと残り続けている。

「……落ち着く理由なんて、どこにもないはずなのに」

そう言って、香水を棚の上にそっと置く。
手の中を離れても、その香りは、まだそこにある気がした。
ベッドに背中を預け、天井を見つめる。

誰の姿も、名前も浮かばない。
けれど、なぜだろう。
心のどこかで、ずっと――
誰かの存在を、探し続けている気がした。

「……おかしいな」

ぽつりと落ちた声は、静まり返った部屋に吸い込まれていった。

香りだけが、まだ空気の中に漂っていた。

まるで魂が、誰かと触れたあとのように――。