キスしたら、彼の本音がうるさい。

改札を抜けて、駅の構内へと入る。
ラッシュ前の夕方。人の波はまだ緩やかで、空気には少しだけ余裕があった。

誰かの電話の声。ヒールの音。構内アナウンス。
いつものように、少しざわざわした日常の音が周囲を満たしている。

香水カウンターで試したいくつかの香りが、まだ手元に残っている気がする。
けれど、どれも心には残らなかった。
“新しい香りを選ぶ”という行為そのものが、まだ自分には早すぎる――そんな気がしていた。

吹き抜けの通路に出て、明るい照明の下を歩く。
あと数歩で、エスカレーター。
そう思った、そのときだった。

――ふわり。

鼻先をかすめた、懐かしすぎる香り。
足が、無意識に止まった。
心臓が、大きく跳ねる。
頭で考えるよりも先に、身体が反応する。

柔らかくて、それでいて確かな輪郭を持つその香り。
私の肌が覚えている。

夜、手首に纏いながら、名前を呼んだあの記憶と重なる。

でも、それは私の香りではなかった。
私が纏ってきた、あの“彼”の香り。

だけど今、すれ違った誰かが纏っていたそれは、
まるで――“彼”が本当に生きていた頃のままの香りだった。

私は、反射的に振り返った。
視線の先、少し俯き加減で歩くスーツ姿の男性の後ろ姿。
ゆっくりと、人混みの中に溶けていく。

名前を呼ぼうとした。
声を出そうとした。
けれど、喉が詰まって、声にならなかった。
顔は見えなかった。

声も、仕草も、何ひとつ確かではない。

でも――香りだけは、絶対に間違いなかった。

雑踏の中、どうしてこんなにも香りだけを覚えているんだろう。
どうして、こんなにも心が揺れるんだろう。

涙が込み上げそうになるのを、必死でこらえて、私は視線をゆっくり落とした。
すれ違ったのは、ほんの数秒。

けれど、
心だけが――
まだ、“彼”のほうを向いたままだった。

◇ ◇ ◇

そのとき、
駅の反対側の通路、柱の影に寄りかかるように立つ一人の男がいた。
胸の奥で、何かがざわついていた。
不意に、言葉では言い表せない熱がこみ上げ、彼は立ち止まっていた。

「……なんだ、今の」

小さく息を吐いて、額に手をやる。
誰かとすれ違ったという確かな感覚はない。

ただ、ほんの一瞬――“何か”が自分の中に触れた気がした。
香水の香りが、ほんのわずか、空気の中に漂っていた。

意識的につけているはずの自分の香りが、今だけは、誰かに返されたような錯覚を覚える。

まるで、自分だけのものだと思っていた記憶を、
誰かに“呼び起こされた”かのように。

心臓が、痛いほどに脈打っていた。

なぜか視界が滲んでいて、彼は不思議そうに自分の頬に触れる。
そこには、ひとすじの涙の気配があった。

「……は?」

音楽も、感情も、記憶もない。
けれど、この涙だけが確かにそこにある。

バッグに入れていたミニボトルを、思わず取り出して握りしめた。
手のひらにすっぽり収まる、小さな香水の瓶。
花のような、でもどこか遠く、懐かしい香り。

「……意味、わかんねぇな……」

それでも手は、その香りを離そうとしなかった。
香りを嗅ぐたびに、胸の奥が、まるで“答えを知っている”かのように疼いていた。