キスしたら、彼の本音がうるさい。

「今夜は、ちょっと風が気持ちいいですね」

仕事終わり、会社のエントランスを抜けたところ。神崎の穏やかな声に、私は顔を上げた。
ビルの隙間を抜けてきた風が、髪をふわりと揺らしていく。

「帰り道、どちらまでですか? 少しだけご一緒してもいいですか」
「……もちろん。お疲れさまでした」

並んで歩く道。
コツ、コツと響く足音は相変わらず静かで、けれど私の歩幅にそっと寄り添ってくれるようだった。

「今日の会議、浅見さんのプレゼン、すごく良かったです」
「ありがとうございます。緊張で声が震えてたかも、って心配してました」
「むしろ落ち着いて見えましたよ。伝えたいことがちゃんと届いてきたというか……言葉も、表情も」

“表情も”。

その一言が、胸の奥をほんのりと温かく染めていく。

神崎は、いつも言葉を選ぶ。
誰かを無理に褒めたりしない。
けれど、本当に必要なときにだけ、ちゃんと“見ている”ことを伝えてくれる。

信号待ちの横断歩道。
赤信号を前に並んだとき、ふいに神崎が横を向いて言った。

「最近、浅見さん……少し柔らかくなりましたよね」
「えっ?」
「表情が。前より、笑ってる時間が増えたなって。あ、悪い意味じゃなくて、ちゃんといい意味です」

不意を突かれて言葉に詰まり、私は小さく笑ってごまかした。
でも、それはたぶん――神崎のおかげだ。
この人は、余計なことは言わないのに、不思議と心に余白を作ってくれる。

「あの……」

何かを言いかけて、結局飲み込んでしまう。
言葉にするには、まだ心の整理がついていない。
その沈黙を、神崎がすっと埋めてくれる。

「あ、そうだ」

ポケットからスマホを取り出し、何かの画面を私に見せる。

「今日の帰り、香水売り場にちょっと寄ってみようと思ってて」
「……突然ですね」
「最近、上司に“香りで印象変わるぞ”なんて言われて。
で、誰かに相談したいなと思ったら、真っ先に浮かんだのが浅見さんでした」
「それ、褒めてます……よね?」
「もちろん。むしろ憧れてます」

そう言って、ほんの少し照れたように笑う神崎に、つられて私も吹き出してしまう。
昔の私なら、こんな言葉を向けられても、まともに受け取れなかった。
でも今は、ちゃんと「ありがとう」と返したくなる。

「いいですよ。少しだけなら、付き合います」
「本当ですか? 助かります」

香水売り場。

“あの人”のことを思い出さずにいられない場所かもしれない。

けれど今は
この人と過ごす時間の中で、自分の心がほんの少し軽くなっていることを
私はちゃんと感じていた。