キスしたら、彼の本音がうるさい。

その日の帰り道、駅の構内に足を踏み入れたとき、ふいに鼻先をかすめた香りに足が止まる。

ほんの一瞬だったけれど、あまりにも懐かしくて、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
柔らかくて、でも芯のある――“あの人”が纏っていた香り。

前を歩いていたスーツ姿の男性が振り返る。

けれど、違った。
知らない顔、知らない人。

それでも、心は反応してしまう。
香りが、理屈よりも先に“魂”の記憶を呼び起こす。
まるで、彼がそこにいたかのように。

(……違う、はずなのに)

目を閉じて深呼吸する。香りはもう消えていた。

「浅見さん」

今度は、本当に声がした。
振り返ると、神崎がそこにいた。
腕にコートをかけ、片手に書類のファイルを持ちながら、少しだけ息を弾ませていた。

「……ここ、通ると思って」
「待ってたんですか?」
「偶然です。もしタイミングが合えば……くらいで」

冗談まじりのその距離感が、どこかありがたかった。

「どうかしましたか?」
「いえ……なんでもないです」

気づかれたくない気持ちを押し込めて笑うと、神崎は黙って、ポケットからそっとハンカチを差し出してきた。
一瞬、何のことか分からなかったけれど、頬をつたうひとすじの涙に気づいて、ようやく理解する。
自分でも気づかないほど静かに、私は泣いていたらしい。

「……すみません」
「いえ…」

それ以上、何も言わなかった。すると話題を変えるように言う。

「香水、変えましたか?」
「え?」
「いや……違う香りがした気がして。人違いだったかもしれません」
「私じゃないと思います。ずっと、同じなので」

そのあとは何も言わず、神崎さんは私の横を、少し後ろを歩いてくれた。
その歩幅のやさしさに、今は心から感謝していた。

◇ ◇ ◇

夜。

シャワーを浴びて、髪を乾かし、ベッドサイドの棚に視線を向ける。
そこには、変わらず並ぶ二本の香水ボトル。

ひとつは、朝の“私”をつくる香り。
そしてもうひとつは、夜だけに身にまとう、“彼”の気配。

私は深い青のボトルを手に取り、手首にそっとひと吹きする。

「……おかえり」

誰にも届かない言葉が、静かな部屋に溶けていく。
香りが呼び起こす記憶は、今日も一瞬で胸の奥を掻き乱していった。

それが幻でも、すれ違った人でも関係ない。
“あれは彼だった”と、心が勝手に信じてしまう。

「……気のせい、だよね」

言い訳のような呟きをしながら、バッグのポケットに手を入れる。
中には、まだ神崎さんのハンカチがあった。

明日、きちんと洗って返そう。

でもきっと、彼はそのとき、涙のことには何も触れない気がする。
だから、少しだけ――その沈黙が、ありがたかった。

香りは、消えても心に残る。
そう思える一日が、また、静かに終わっていく。