キスしたら、彼の本音がうるさい。

朝、鏡の前で髪を整えながら、くるんと巻いた毛先を片側に寄せ、耳元のピアスをそっと確かめる。

そしてワンプッシュ。
甘さと透明感を含んだ、いつもの香水が空気にふわりと漂い、私の一日が静かに始まる。

通い慣れた道を歩きながら、会社へ向かう心の準備を整えていく。
すれ違う人の声やカフェから漂う焙煎の香りに包まれながらも、胸の奥の空白だけはどうしても埋まらず、ふとした瞬間に小さな風が通り抜けていくような感覚が残る。

「香りって、ほんと正直」

自分でも驚くほど自然に出たそのひと言に、思わず小さく笑ってしまう。
“あの人”が、何気なく言っていた言葉を、私はまだ忘れていない。

◇ ◇ ◇

「浅見さん」

会社のエントランスで声をかけられ、反射的に足を止めると、そこには神崎がいた。
ネクタイを少し緩めたスーツ姿に、片手にはコーヒーカップ。
どこか肩の力が抜けた雰囲気で、以前より少しだけ近くに感じられた。

「おはようございます」
「おはようございます。……朝、早いですね」
「今日は打ち合わせがあって。その前に、駅で浅見さんを見かけたので」
「えっ……見てたんですか?」
「ええ。なんとなく、“変わらない人だな”って」
「変わらないって……どういう意味ですか?」
「香りです。服装が違っても、香りですぐ浅見さんだと分かります」

その一言に、少しだけ動揺する。
けれど神崎は、あくまで自然な口調で続けた。

「香りって、意外と記憶に残るものなんですよ。浅見さんの香り、落ち着いていて、印象的で」
「……たぶん、学生の頃からずっと変えてないから、かな」

ふと口をついて出た自分の言葉に、自分でも少し驚く。
神崎は優しく微笑みながら言った。

「じゃあ、その香りには、いろんな“時間”が詰まってるんですね」

その言葉が、過去ごと受け止めてくれるようで、思わず息を詰める。

「香りって、その人らしさが出るというか……柔らかいのに芯がある印象です」
「詩人みたいなこと言いますね」
「いえ、観察者ですよ」

そう言って笑った神崎の言葉に、私は肩の力が少し抜けるのを感じた。

今まで、誰にもそんなふうに言われたことはなかった。
“観察していた”なんて、そんな視線に気づく余裕なんて、これまでなかったはずなのに。