キスしたら、彼の本音がうるさい。

春の風が、焼きたてのパンの香りを運んでくる。

店の前のベンチを掃除していたとき、ふと感じた視線に顔を上げると──そこに、見覚えのある横顔があった。

「……直央くん」

声に出した瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
彼がこの店に来たのは、いつぶりだろう。

「わ、やっぱり。……久しぶり」
「うん、久しぶり……だね」

少し気まずそうに、でも変わらぬやわらかさで笑う直央。
その顔に、どこか遠慮がにじんでいた。

「ここ、もう寄りにくくなっちゃってさ」

彼が苦笑しながら言った。

「たぶん、あのとき……“どこか行かない?”って誘ったの、覚えてるよね」
「……うん。覚えてる。ちゃんと、覚えてるよ」
「はぐらかされたときに、“ああ、そういうことか”って思ったんだ。
……でも、なんか言わせたくなかった。
月菜ちゃん、あの頃ずっと苦しそうだったから。無理させたくなくて」

彼のその言葉に、思わず息が詰まりそうになった。
気づかれたくなかったものを、ちゃんと見られていた。

「ありがとう、直央くん。本当は、ちゃんと伝えなきゃってずっと思ってた」

彼は何も言わず、私の方を見つめる。

「……彼氏が、できたの。去年の冬から付き合ってるの」

一瞬、彼のまつげがわずかに震えた。
でも、そのあとすぐ、ゆっくりと頷いてくれる。

「やっぱり、そうなんだ」
「……“やっぱり”?」
「うん。前に会ったとき──もう半年以上前かな。あのときの君、笑ってたけど……目が、泣きそうだった。
でも、今の君は、ちゃんと幸せそうだから。……伝わるよ、ちゃんと」

その声が、すごく優しかった。
まるで、私のなかの曇りをふわっと撫でてくれるみたいで。

「俺さ……本当に、月菜ちゃんのこと好きになってたんだよね」

ふいに、その言葉が落とされた。

「たぶん、気づいてたと思うけど。……止められなかった。
でも、同時にわかってたんだ。
君の心の中に、俺の居場所は最初からなかったってことも」

「……ごめんね」

そう言うと、彼はゆっくり首を振った。

「謝らないで。好きになるって、誰のせいでもないし。……でも、好きになってよかったよ。
月菜ちゃんの笑う顔、俺、けっこう好きだったからさ」

笑う顔。
直央のその言葉に、
涙がこぼれそうになって、ぎゅっと唇をかんだ。

「ありがとう、ほんとに。……ちゃんと話せてよかった」
「うん。俺も、ちゃんと“好きだった”って言えてよかった」

立ち上がった彼が、最後にふっと笑って言った。

「じゃあ、そろそろ俺、パン屋のお客さんに戻るね。
……また気が向いたら寄るよ。君が、笑ってる場所なら」

──その言葉を、私はずっと覚えていると思う。

別れ際のひとことが、こんなにあたたかいなんて。
それだけで、私はまっすぐ前を向ける気がした。