キスしたら、彼の本音がうるさい。

瑛翔の部屋には、もうずいぶん長い間、行っていない。

あの静かな空間で、ふたり並んで映画を観たり、同じカップに入ったココアを飲んだり──

そんな時間が、たしかにあった。

でも最近は、誘われることもなくなったし、私からも「行っていい?」なんて、言えなくなっていた。
なにかが、変わってしまった。

あの“声”が聞こえなくなった日から、ふたりのあいだに流れる空気が、ほんの少しだけ冷たくなった。

翌日、キャンパスの帰り道。

偶然出くわした瑛翔と、駅までの道を歩いた。
沈黙が続いていたけれど、私は覚悟を決めた。

聞こえていたあの頃の“声”に、ずっと甘えていた。
でも今は、言葉でちゃんと伝えなきゃいけない。
歩道橋の手前、信号が変わるのを待ちながら、私は言った。

「……ねえ、瑛翔」
「ん?」
「……私、あなたのことが好き。ちゃんと、好きだよ」

彼は、驚いたようにこちらを見た。

目が合ったまま、わずかに瞬きをして、なにか言いかける。
唇が開いて、呼吸がひとつ漏れる。でも次の言葉が出ない。

視線が迷子のようにさまよって、私の目元を見て、それから口元に落ちて、また逸れた。

一度、口を閉じたあと、彼は喉を鳴らし、もう一度だけ何かを言おうとした――けれど、結局それもできなかった。

白い息が、冬の空気にふわりと消えていく。

そしてようやく、彼の口から小さく出た言葉は、

「……ごめん。今の俺じゃ……うまく伝えられない」

それだけだった。

でも、その声は、ほんの少しだけ震えていた。
私は「うん」とだけ返して、信号が青に変わると歩き出した。
隣じゃなくて、ほんの一歩だけ、彼より前を。


その夜、ベッドの中でスマホを見た。
通知は、ひとつも来ていなかった。
LINEの画面を開いたまま、私はそっと目を閉じる。
「言葉が欲しい」って、ずっと思ってた。
ちゃんと向き合って、伝えあって、心を通わせたいって。
 
今日、やっと伝えた。――“好き”って。
ほんの少しの勇気を振りしぼって、精一杯の気持ちをこめて。
だけど彼は、何も言ってくれなかった。
 
“言葉がなくても、伝わる”って、ずっと信じたかったのに。

今の私たちは、言葉のないまま、静かに遠くへ離れていく気がした。