キスしたら、彼の本音がうるさい。


コーヒーの湯気がゆらりと立ちのぼる。

「ほんとはね、今日は予定がキャンセルになって暇だったから、なんとなく来てみたんだ。
久しぶりに、ひとりでゆっくり歩いてみようかなって。……そしたら、まさか月菜ちゃんがいるとはね」

偶然だよ、と笑う直央くん。
でもその偶然を、彼は少しも軽く扱わない。
私を見つめるその目は、ちゃんと“いま”を見つめている。

「ねえ……もし迷惑じゃなかったら、また会えないかな」

さらりとした言い方なのに、心臓が跳ねる。

「せっかく久しぶりに会えたし、あの頃よりも――もうちょっとだけ、仲良くなれたらって思ってる」

言葉に棘がない。下心も、見栄もない。
ただ、まっすぐに、そう願ってくれてるだけなのが分かる。

「……うん、迷惑じゃないよ。ありがとう」

そう返す私の声が、少しだけ震えていたのを、気づかれなかったふりをしてくれた。
店を出るとき、私が最後に「気をつけてね」と言うと、
彼は、レジの脇でふわりと笑った。

「じゃあ、次に会うときまでにさ――」
「うん?」
「もっと“綺麗になったね”って言えるくらいに、見惚れられる準備しといて。……ちゃんと褒めるから」

ドアが閉まる寸前、そう言って微笑む彼の声が、
パンの焼ける香りの向こう側で、やけに鮮明に残った。

スマホ連絡先には、今も瑛翔の名前が残っている。

でも、
“声”はない。心の奥に響いていたあの人の本音は、もうどこにも存在しなかった。