夕暮れのキャンパスを、ふたりで歩く。
講義終わりのざわめきが少しずつ遠ざかり、風の音と足音だけが残る。
空は茜から群青へとゆっくり表情を変え、木々の葉が、さらりと肩先に舞い落ちた。
「……寒くなってきたね」
ふと口にした言葉に、神谷がほんの一瞬だけこちらを見た。
「……そうだな。手、冷たそう」
「え?」
「……なんとなく。そんな気がしただけ」
《……本当は、触れて確かめたかった。でも、理由がないと……》
その声が、月菜の心にじんわりと染み込む。
なんてことのない言葉なのに、どうしてこんなに甘く響くんだろう。
ふと、ポケットに入れていたカイロを思い出す。
「これ、使う? 使い捨てのだけど、まだあったかいよ」
差し出し、わざとお互いの手に触れるようにカイロを乗せると、神谷はわずかに目を見開いた。
「……いいのか?」
「うん。私は手袋あるから。」
そう言ってバッグから手袋を取り出して、神谷に見せると、黙ってそれを受け取り、ポケットに滑り込ませた。
《……手が触れた……こういうとこ、まじでずるい。俺、どうしたらいいんだよ……》
心の声と、実際の無表情があまりにも違っていて、また胸が熱くなる。
──私ばっかり、こんなに聞こえて、ずるいよね。
ほんとうに、ずるいって思う。
彼が言葉にしない想いを、私は全部、拾ってしまっている。
「……神谷くんってさ、あんまり表情変えないよね」
「……そうか?」
「うん。ちょっとこわいくらい、落ち着いてるっていうか」
「……よく言われる」
《……本当は、隠してるだけなのにな。ビビってんだよ、きっと。下手なこと言って嫌われたくないだけ……》
その“声”が、痛いくらい真っ直ぐだった。
嫌われたくないって、こんなにも切実な感情なんだって思う。
「でもさ、たまに目が優しくなるとき、あるよ」
「……そうか」
「うん。今日、何度か、そんな顔してた」
神谷は何も言わず、ただ、空を仰いだ。
風が吹いて、前髪が少し揺れた。
その横顔が、やけに遠く感じた。
──たぶん、私はもう、気づいてしまってる。
神谷のことを、ただ“気になる”なんて感情じゃない。
こんなふうに、心の奥に触れてしまったら、もう元には戻れない。
「ねえ。声に出さなくても、気持ちって伝わると思う?」
「……。」
「あ、や……なんかごめん。突然変なこと言って……」
「あぁ…いや違う。謝らなくていい。どうかなって考えてただけだから。」
そうすると言葉を選ぶように神谷はそっと口を開いた。
「俺、やっぱり苦手だと思う。伝えるのも、察するのも。だからたぶん、これからも誤解されること、いっぱいある」
月菜は、黙って耳を傾ける。
「でも、できれば、そういうのに気づいてくれる人と、そばにいたい」
「…………」
《……今、こんなこと言って、どう思った? 引かれた? 違う……心の声に気づいてくれたら、少しは伝わったのか?》
月菜は、声に出しそうになるのを必死で堪えた。
「聞こえてるよ」って、そう言ってしまいたくなる。
でも、それはずるい。
私が勝手に“知ってる”だけで、彼は一生懸命、言葉を選んで伝えようとしてるのに。
「私は……できると思うよ。ちゃんと気づく人、いると思う」
神谷はふっと目を細めた。
それが、少しだけ笑ったように見えて──月菜の心はまた、やさしく揺れた。
しばらく歩いて、大学の南門が見えてくる。
この先で道が分かれる。
「こっち?」
「うん。ここからは、ひとりで大丈夫」
「……そっか」
月菜は、名残惜しさを隠せないまま、バッグの肩紐を握りしめた。
「ありがとう、今日は。ほんとに、楽しかった」
「……俺も」
「……また、話せるかな?」
その言葉に、神谷は目を伏せる。
「……うん。俺からも、話しかけてみる」
《……次は、もっとちゃんと。声に出してみよう。できるかな……でも、やってみたい》
その声を、また聞いてしまった。
やっぱり、聞こえるたびに好きになる。
でも、それだけじゃ足りないって、初めて思った。
「……神谷くん」
名前を呼ぶと、彼は顔を上げた。
月菜は、少しだけ躊躇いながら、言葉を重ねた。
「今度は、わたしのこと……名前で呼んでくれたら、嬉しいな」
一瞬、神谷の目が丸くなった。
けれど、すぐにふっと表情が緩む。
「……月菜」
その一言が、胸の奥に静かに降り積もった。
──今の“声”は、ちゃんと聞こえた。
だから、私はそれに応えたいと思った。
「じゃあ、またね。瑛翔くん!」
「……いやそこは『瑛翔』だろ」
「わかった!またね。瑛翔!」
手を振ると、神谷はうなずいて、ゆっくりと背を向けた。
帰り道、月菜は少しだけ空を見上げた。
夕焼けの残る空に、一番星が淡く光っている。
心の声が聞こえるなんて、不思議なこと。
でも、本当に知りたいのは、
その声を──ちゃんと、言葉にしてくれる瞬間。
きっと私は、あの人の“言葉”を、ずっと待ってるんだ。
