目の前にいる神谷は、変わらず無表情だったけれど、その沈黙は不思議と落ち着くもので、空間に流れる時間がゆるやかに感じられた。
「……たまたま?」
ふいに彼が口を開いた。
低く抑えた声。その響きに月菜は少し驚いて顔を上げる。
「え?」
「……この店、よく来るのかなって」
「あ、うん。静かだから、よく本読みに来るの」
「……そっか」
会話はそこでいったん止まる。
でも、それ以上を無理に求める空気ではなかった。
ただ隣に座っているというだけで、不思議と安心感があった。
月菜のスマホがテーブルの端でカタンと音を立ててずれ落ちそうになった。
「あ……」
とっさに手を伸ばすと、神谷の指先と触れ合った。
その瞬間──
《……また、だ。やっぱ、この距離……ダメだろ……》
《手、近すぎて、触れた感触まだ残ってるし……マジで落ち着け俺……》
月菜の心臓が跳ねる。
やっぱり、聞こえてる。
神谷の、言葉にならない“本音”が、また静かに胸へと届いてくる。
彼の顔に変化はない。けれど、声の奥にある想いが、まっすぐに流れ込んできた。
「……ごめん、スマホ、滑っちゃって」
「……別に。俺の手が遅かっただけだし」
《……そんなことより、顔に出てないか? てか、俺だけこんな意識してんのか?》
その声に、思わず笑ってしまいそうになる。
けれど唇を結んで、なんとかこらえた。
「えっと……神谷くんって、コーヒー、いつもブラックなの?」
神谷は一瞬だけ視線を向けて、小さく頷く。
「……甘いの、苦手」
《……俺のこと、知ろうとして聞いてくれたのか……だったら、ちょっと嬉しい……》
その言葉が胸にしみた。
「私は……あんまりコーヒー得意じゃなくて。眠気覚ましにしか飲まないかも」
「……そういう感じする」
「えっ?」
「……苦いの、似合わない」
淡々とした声。だけど心の中では──
《……浅見には、紅茶とかミルクっぽいやつの方が似合う。
なんだが髪の毛の色もミルクティみたいな色だし…それにしても、長くて真っ直ぐで綺麗な髪だな。》
《真っ白な肌に、サラサラの髪の毛が映えてる。
目がおっきくて、まつ毛も長い甘い顔立ちだから…苦い顔とか、似合わない。あんまり見たくない……》
その甘すぎる“声”に、月菜はこっそりと胸を押さえた。
嬉しくて、切なくて、くすぐったい。
「まあ、カフェラテとか、好きかも」
「だと思った」
そんな何気ない会話さえ、月菜にとっては宝物だった。
そのとき、カウンターの方から佐原の声がした。
「おーい、瑛翔ー! って、なにやってんだよおまえ、一瞬どこに行ったのかと思ったよ」
月菜は驚いて後ろを振り返る。
佐原がレジの前でドリンクを手にしながら、にやにやと笑っている。
「浅見月菜ちゃんだよね? 昨日の講義で瑛翔の隣にいた子だよな?」
「あ、はい……たぶん、そうです……」
「だよねだよね! やっぱそうか〜。で、どうした? 隣に座ったってことは、気になるってこと?」
「……黙れ、悠斗」
神谷の低い声に、月菜が目を見開く。
その頬は、少しだけ赤い気がした。
《……こいつマジで空気読めねえ……てか、なんでこんな話広げんだ……でも、名前覚えてたのか、あいつ……》
「いやでもさ、さっき何かに気づいたかと思ったら、急におまえ、スッと立ち上がって月菜ちゃんのとこ行くからさ。びっくりしたって」
「……気になっただけだ」
「そっかそっか。気になっただけ、ね~」
「うるせぇ……」
神谷がコーヒーを口に運びながら目をそらす。
佐原は肩をすくめながら言った。
「ま、オレはあっちでゆっくりするから、邪魔しないよ。瑛翔、たまには楽しめよな」
そう言ってカウンターの方へ戻っていった。
月菜は、頬の熱を誤魔化すようにカップに口をつけた。
──聞こえることは、やっぱり嬉しい。
でも、ずっとこのままでいいのかな。
彼の気持ちを、私だけが知っていて、
彼は何も知らずに、そのまま笑っている。
──これって、ズルいよね。
そんなことを思いながらも、また心の奥が温かくなる。
「……ねえ」
ふいに神谷を見つめると、彼は少しだけ視線を向けた。
「なに?」
「……ううん、なんでもない」
《……話したいことあるなら言えよ……俺だって、何話せばいいか分かんねえけど、でも、こうしてたい……》
その声が、やけに優しくて。
でも、どこか痛みを孕んでいるようで──
月菜は、目を伏せた。
“こうしてたい”──
その言葉が聞こえたことが、ただ、嬉しかった。
でも私は、もう“知っている”。
彼よりもずっと先に、この想いの重さに気づいてしまっている。
そのことが、苦しくて、でも、やっぱり幸せだった。
神谷が静かに言った。
「……そろそろ戻る」
「うん……そうだね」
席を立ち、トレイを返しにカウンターへ向かう。
その背中を神谷が数歩後ろからついてきた。
レジ横でふと、彼の声がまた聞こえた。
《……また、こういう時間がつくれるといい……なんか、ちょっとだけ、幸せだった……》
月菜は、思わず背中越しに小さく笑った。
──うん。私も、ちょっとだけど、すごく、幸せだったよ。
佐原が合流したのは、ふたりが出口へ向かって歩き始めたときだった。
「おーい、俺はこのあと買い物してくから、先戻ってていいよー」
「……わかった」
神谷が短く応えたあと、月菜の方を見て言った。
「……帰り、途中まで一緒に歩くか?」
「うん……ありがと」
そうしてふたりは、夕暮れに染まるキャンパスを並んで歩き出した。
