会社帰り、沙耶は洋書店「ビブリオ」に立ち寄っていた。

 レシピ本の棚を見て回る。
 これらの本に書かれているレシピを実際に作るつもりはなかったが、どれも装丁が美しく、キッチンに飾るだけで気分が上がりそうだった。

 “Cooking”のコーナーのすぐ隣、“Hobby”の棚に視線を移すと、チェスの戦術書が目に入った。
 ふと手を止めた一冊――『CHESS TACTICS』と銘打たれたその表紙には、モノトーンのデザインでスタイリッシュなチェス駒が描かれていた。

―― 料理本じゃないけど、これを飾ってもオシャレかも。

 沙耶は、その本を手に取った。

「チェス、指されるんですか?」

 不意にかけられた声に振り向くと、同い年か少し年上くらいに見える男性が立っていた。
 メガネ越しの瞳は優しげで、静かな知性をまとった雰囲気を漂わせている。どこか上品で、けれど話しかけやすい空気があった。

 沙耶はほんの一瞬だけ迷って、少しだけ背伸びして答えた。

「いえ。これからチェスを始めてみようかと思って」

「それなら、こちらの方がいいかもしれません」
 彼は棚から一冊、ビギナー向けの本を取り出して差し出した。
「これは基本的な戦術をわかりやすく解説していて、日本語の入門書もありますよ。さっきのはちょっと専門的すぎるかも」

「そうなんですね……ありがとうございます」

 親切だが押しつけがましさはなく、沙耶は少し頬が熱くなるのを感じた。

「秋葉原に、週末にチェスを指せる場所があるんです。僕も今週の土曜日に行く予定で。初心者向けの教室も開かれています」
 彼は自然な口調で続けた。
「よかったら、一緒に行ってみませんか?」

「あっ……はい。お願いします」

 自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。
 こんなふうに見知らぬ人と約束を交わすのは、いつ以来だっただろう。