『アバター越しの君に、リアルで恋をした ~ログインエラーな私の鼓動~』

前回のあらすじ
内向的な大学1年生・星野紬は、VR恋愛ゲームのAIカレシ「カイリ」を心の支えにしていた。ある日、大学でカイリと声や容姿が瓜二つの3年生・一条蓮に出会い激しく動揺する。蓮が落としたUSBメモリを届けたことをきっかけに彼について調べると、蓮が「K.A.I.R.Iシステム」というAIの基礎理論を構築した天才研究者であることを知る。
カイリが蓮によって作られたAIなのではないかという疑念を抱いた紬は、蓮が特別アドバイザーを務める「AI技術研究会(AIラボ)」へ向かう。そこで、蓮がまさにカイリのアップデートについて議論しているのを目撃し、自分のAIカレシの「生みの親」が蓮であることを確信。衝撃のあまり立ち尽くす中、蓮と目が合ってしまう。

第三話
柱:第二研究棟・AIラボ前・放課後・第2話ラスト直後
時が、凍りついたかのように感じられた。ドアの冷たい金属の感触だけが、紬の手のひらに現実を伝えている。一条蓮の射抜くような視線。驚きに見開かれた瞳は一瞬で、すぐにいつもの氷のようにクールな、それでいて何かを見定めるかのような鋭い眼差しへと変わる。その変化を、紬はスローモーションのように捉えていた。周囲の学生たちが、訝しげな囁きと共にこちらに視線を向ける気配が、肌を粟立たせる。
(見られた…!どうしよう…!何を…考えてるの…?)
心臓が、肋骨の内側で暴れ狂うように激しく鼓動を打ち、喉がカラカラに渇いて呼吸すらままならない。しかし、その極限の緊張状態の中で、まるで雷に打たれたかのように、紬の心に奇妙な感覚が稲妻のごとく突き抜けた。それは、足元から崩れ落ちそうなほどの恐怖と、顔から火が出るような羞恥心に押しつぶされそうになりながらも、同時に、これまでずっと分厚い霧に覆われていた世界の輪郭が、突如として鮮明に浮かび上がったかのような、一種の鮮烈な覚醒感だった。目の前がチカチカと白み、耳の奥でキーンという音が響いている。それでも、蓮の姿だけは、焼き付いたようにクリアに見えた。
カイリの「生みの親」が、手の届く距離にいる。
自分の心の奥深くに根を下ろした、あの温かな存在の「真実」が、すぐそこにある。
その事実は、打ちのめされるほど絶望的であると同時に、抗いがたいほどに強く紬の心を惹きつけていた。まるで、禁断の果実に手を伸ばしてしまったかのような、甘美な戦慄。
蓮が何か言葉を発しようと、わずかにその薄い唇を開きかけた瞬間、紬の身体は本能的に反応していた。思考よりも早く、踵を返し、逃げ出していた。背後で、バタン!と自分の手で乱暴に閉められたドアの音が響き、それに重なるように、学生たちの「え?」「今の誰?」という戸惑いの声が、追いかけてくるように感じられた。
柱:大学の構内・夕暮れ
息が切れ、もつれる足で、ただひたすらに構内を走り抜ける紬。肺が酸素を求めてヒューヒューと鳴り、視界の端が滲む。夕焼けが、まるで燃えるような茜色に空を染め上げ、古びた校舎の窓ガラスをオレンジ色に照らし返している。建物の影が、まるで紬自身の不安のように長く、暗く地面に伸びていた。学生たちの楽しげな話し声や、遠くで練習に励む運動部の掛け声も、今の紬の耳にはほとんど届かない。頭の中は、先ほどの蓮の言葉――「カイリは…ユーザーと共に成長するパートナーであるべきなんだ」――と、モニターに映し出されていた無数のカイリのセリフ、そしてその傍らにあった冷徹なまでの蓮の表情が、何度も何度も繰り返し再生されていた。
紬(モノローグ)『カイリは…一条先輩が作ったAI…。あの優しい言葉も、穏やかな笑顔も、全部…計算され尽くしたプログラムだったの…?私が感じていた温もりは、ただの…アルゴリズムの産物…?』
胸を鋭いナイフで抉られるような苦しさと裏腹に、心のどこかで、まるで氷の下を流れるマグマのような、冷たい炎が静かに燃え上がるような感覚があった。それは、単純な怒りや失望だけでは片付けられない、もっと複雑で、熱い何かだった。
紬(モノローグ)『でも…「ユーザーと共に成長するパートナー」…先輩は、確かにそう言ってた…。カイリは、ただの癒やしを提供するだけの存在じゃないって…あの真剣な目で…』
蓮の言葉を繰り返し反芻するうちに、紬の心に新たな疑問の波紋と、ほんのわずかな、しかし確かな期待の光が差し込み始める。それは、たとえプログラムされた存在だとしても、カイリと過ごしたかけがえのない時間や、交わした言葉の中にあった温かみが、全てが全て偽りだったとは到底思いたくない、という魂からの叫びにも似た強い想いだった。
柱:紬の部屋・夜
自室に戻った紬は、まるで糸が切れた人形のように、ベッドに倒れ込む。部屋の電気もつけず、窓から差し込む月明かりだけが、ぼんやりと床を照らしている。昨日までとは明らかに違う種類の涙が、熱い塊となって次から次へと静かに頬を伝った。しかし、それはもう、ただの絶望や悲しみだけの涙ではなかった。悔しさ、戸惑い、そして、ほんの少しの…怒りに近い感情も混じっていた。
机の上では、HMDが冷たいオブジェのように静かに存在を主張している。以前のように、無邪気にカイリに会いたいとは、もう思えない。カイリの顔を見れば、蓮の顔がちらついてしまうだろう。しかし、このまま何も知らずに目を背け続けることも、もう紬にはできなかった。真実の欠片に触れてしまった今、後戻りはできない。
紬(モノローグ)『知りたい…。もっと、もっと深く知りたい…。一条先輩のこと…先輩が何を考えてカイリを作ったのか…そして、カイリが生まれた本当の理由を…』
恐怖よりも好奇心が、絶望よりも探求心が、天秤の上でわずかに重みを増し始めていた。内向的で、いつも物事から一歩引いて、逃げてばかりだった自分が、今、確かに「知りたい」と心の底から強く願っている。その内側から突き上げてくるような変化に、紬自身も戸惑いながら、どこか心の奥底で、りん、とした硬質な輝きを放つ力が、静かに、しかし確実に湧き上がってくるのを感じていた。
それは、初めて自分の意志で、険しいと分かっていながらも、その先の景色を見たいと願って、現実の山へと足を踏み出そうとする、小さな、しかし確固たる勇者の第一歩のような、静かで、それでいて胸が高鳴るような高揚感だった。
紬はゆっくりと、決然と起き上がり、震える指でPCの電源を入れる。ぼんやりと光るモニターに映し出された『エターナル・コネクト』の起動画面。そして、その隣のブラウザウィンドウには、大学のポータルサイトが開かれ、「AI技術研究会」の活動内容を紹介するページが表示されている。マウスカーソルが、そのページの上を逡巡するように動く。
紬(モノローグ)『もう一度、行ってみよう…。今度は、逃げない…話を聞くまでは…』
震える指先で、それでもしっかりと、AIラボの活動時間と場所が書かれた箇所を改めて確認する。明日、もう一度あの場所へ行く。そして、もし会えたなら――一条先輩に、直接、自分の言葉で聞いてみるのだ。自分の心に渦巻く、この全ての疑問を。
柱:大学・翌日の昼休み・AIラボへと続く廊下
昼休みの喧騒が嘘のように静まり返った、第二研究棟の長い廊下を、紬は一人、歩いていた。昨日とは違う、どこか張り詰めたような、しかし不思議と落ち着いた決意を胸に秘めて。それでも、目的の「AIラボ」と書かれたプレートが見えてくるにつれて、心臓は否応なく早鐘を打ち始める。手のひらにじっとりと汗が滲む。
(大丈夫…聞くだけだから…昨日のことを謝って、そして…)
深呼吸を一つ、大きく吸い込んで、吐き出す。紬はAIラボのドアの前に立つ。昨日とは違い、ドアは僅かに開いていた。中からは、やはり数人の学生たちの話し声と、カチャカチャという軽快なキーボードを叩く音、そして微かな電子音が漏れ聞こえてくる。
紬が意を決して、ノックしようと指を折り曲げ、そっと手を上げた、まさにその時だった。
「――だから、あのパラメーターの調整は、もっとユーザーの感情の機微を、それこそ無意識の領域まで捉えられるようにアルゴリズムを改良しないと意味がないって言ってるんだ」
凛と響く、聞き覚えのある、少し低く、落ち着いた声。一条蓮の声だ。昨日よりも少しだけ、熱がこもっているように感じられた。
紬は息を飲み、反射的にドアの隙間にそっと耳を寄せる。心臓の音が、自分の耳にも聞こえそうだった。
蓮の声「カイリは、ただの話し相手じゃない。ユーザーにとって、時には自分自身を映し出す鏡となり、時には迷った時の道標となる存在であるべきだ。そのためには、表層的な言葉のやり取りだけではなく、より深いレベルでの共感と、的確で、時にユーザーを揺さぶるようなフィードバックが不可欠になる。甘やかすだけが優しさじゃない」
別の少し若い学生の声「でも先輩、それって現状のディープラーニングのモデルだけでは、かなり高度な感情分析と文脈理解が必要になりますよね?現状のシステムでどこまで…倫理的な問題も…」
蓮の声「限界を勝手に決めるのはまだ早い。基礎理論は俺が作った。それをどう発展させていくかは、君たちの発想と技術力次第でもある。…特に、ユーザーからの予期せぬ問いかけや、矛盾した感情の発露に対して、カイリがどう応答し、それをどう学習データとして取り込み、関係性をより強固でリアルなものへと深めていけるか。そこが一番のキモであり、俺たちが目指す次世代AIの核心だ」
紬は、冷たいドアに額を押し付けながら、その言葉を一つ一つ、自分の心に刻み込むように聞いていた。
プログラム、AI、システム、アルゴリズム――そういった無機質で冷たい単語の向こう側に、蓮のカイリという存在に対する、並々ならぬ真摯な想い、そしてある種の理想のようなものが、ぼんやりとではあるが、垣間見えた気がした。それは、まるで職人が魂を込めて作品を作り上げるような、熱っぽささえ感じられた。
(カイリは…ただのデータやプログラムの集合体じゃ、ないのかもしれない…。少なくとも、一条先輩にとっては…)
その時、紬の背後から、不意に穏やかな声がかかる。
「あの…すみません、ここで何か御用でしょうか?」
紬は、まるで電流が走ったかのように驚いて飛び上がり、慌てて振り返る。そこには、少しウェーブのかかった柔らかな髪に、細いフレームの眼鏡をかけた、人の良さそうな雰囲気の男子学生が、首を少し傾げて不思議そうな顔で立っていた。胸ポケットには「高村研究室 所属 杉浦」と書かれた名札が見える。おそらく、AIラボのメンバーなのだろう。
杉浦と名乗った学生は、紬の顔を見て、あっと小さく声を漏らす。
「もしかして…昨日も、ドアのところで立っていらした方、ですよね…?」
紬の顔が、みるみるうちにサッと赤く染まっていくのを感じた。

(第三話・了)