御曹司の甘いささやきと、わたし

第3話 

「藤原さん!」
「失礼。どうやら、俺はお邪魔したようだ」
 藤原は、この間と変わらず、完璧な美しい顔で、薄く微笑んだ。それは、前回、一緒にやきそばを作った時のような快活な笑顔とはかけ離れた、感情のない笑顔だった。
 鈍い春奈でも、この状況がよくないのがわかった。藤原は、何かを誤解している。
「違うんです、この人は、今日お見合いしたばかりの人で、ちょっと連絡先を交換しただけで」
「お見合い、ほう。それはよかった。では」
 春奈にカードを手渡すと、藤原は、春奈に背を向けて歩き始めた。足早で、ロビーの人込みの中、どんどん歩いて行ってしまう。
 春奈は、広野に言った。
「すみません。今日はここで、失礼します」
 お辞儀をひとつして、春奈は、藤原の後を追った。走っても、団体客がたくさんいて、藤原との距離がさらに遠くなる。
「藤原さんっ」
 春奈は、大きな声を出すしか、なかった。その拍子に、大柄な外人男性と背中がぶつかり、春奈は、つんのめって前に転んだ。
 慣れないヒールの靴なんか履いてるから、と春奈はひとりごちて、立ち上がろうとした。
 すると、目の前に手が差し出された。
「倒れたり、転んだり、忙しい人だな」
 差し出された手は、藤原のものだった。春奈は、手を握り、立ち上がらせてもらった。
「ありがとうございます…」
 床についた足は床に打っただけで、すりむいてはいなかった。
「いいのか?見合い相手をほっぽって」
「はい。大丈夫です。さっきの人よりも、私、藤原さんに伝えたいことがあって」
 そのため、連絡しようかどうしようか、毎晩悩んでいたのだ。
「…連絡してくれればよかったのに」
 藤原は、無表情で言った。こんな時すら、藤原は彫像のように美しかった。
「その…お仕事中かな、とかお風呂かな、とか考えていると、なかなか電話ってハードルが高くて」
「ふうん。てっきり、俺はフラれたんだと思ってたよ。さっきのお見合いの彼ともうまくいっていたみたいだし」
「あれは…違うんです。事情があって、お見合いしなきゃいけなくて、でも断ったら、ときどきお茶飲みませんか、って誘われて」
「じゃ、誘われたらお茶を?」
 春奈は戸惑った。さっきの広野との連絡先交換は、スピード展開で、気がつけば、ラインがつながっていた。
「…わかりません」
 正直な気持ちだった。結婚しないのなら、お茶のみ友達はいいのか、まだ春奈には判断しかねている。
「ふうん。で…俺に、伝えたい事って何」
「藤原さん。これからお時間、ありますか?」
「今日の用事はすませたところだが…」
「あの、よかったら、うちに来てください」
 は?と藤原は今日、始めて、はっきりと気持ちを表情に現した。明らかに意表をつかれた顔だった。

 藤原の車で、春奈のうちに到着した。藤原は、決して小さくはない春奈の住む家屋を、
「…なかなか趣きのある家だな」
 と評した。
 確かに古いが、建てた時は、モダンなものだったのだろう。洒落た玄関ドアや、窓枠などは、子どものころから見てきた春奈の目で見ても凝っていると思う。
「どうぞ、あがってください」
 春奈はリビングに藤原を通した。春奈は料理こそできなかったが、散らかし魔ではない。ものはきちんとあった所に戻すので、部屋は大体整っている。
 春奈のすすめでリビングのソファに腰かけた藤原は言った。
「なんというか…居心地のいい部屋だな」
 そうですか、と春奈はキッチンへ向いながら答える。いつも自分で飲む紅茶をいれて、
藤原の前のローテーブルに出す。
「少し、待っていてください」
 春奈が何をしたいのか、藤原はわからないようで、うっすら戸惑いの色を見せていた。
 十分後。藤原の目の前に、三種類の煮物と、平目のムニエル、彩のいいサラダが並んだ。どれもムニエル以外は、少量で小皿に盛られている。
「作りたてじゃなくてすみません。私が普段作り置きしているものです。ムニエルは今、作りましたが…」
 藤原は、目を見張った。
「これを、君が…?」
「はい。藤原さんと焼きそばを作ってから、料理するようになって、家政婦のミネさんに教わったり、スマホのレシピを見ながら作ったりして、覚えたんです。今はバイトをしているので、時間のある時に、作り置きをして、夕食に食べています」
「驚いた。すごい進歩だ」
「私、はまってしまうとそればかりやるようになって、最初あまりにも食費がかさんだので、困ってしまって。バランスよく作るコツは、ミネさんに習いました。なんどか、最近、
作りすぎにならなくなってきたところなんです」
「お嬢様は、意外と凝り性だったわけだな」
 藤原の顔が綻んだ。
「はい。…どうしても、料理ができるようになったことを、藤原さんに伝えたくて。でも、なかなか電話する勇気がなくて、困ってたんです」
 藤原は、うん、と頷き箸を手に取った。
「あ、もうお昼は食べられたのでは?無理して食べないでください」
 春奈は慌てて言った。もう午後二時だ。
「いや…美味しそうだ。いただくよ」
 藤原は、一つ一つ丁寧に口に運んだ。所作も綺麗で、見とれてしまうほどだった。
 しばらくすると、並べられた料理は、ほとんどなくなった。藤原は、食べながら何度も「美味いな」と言ってくれて、春奈は大満足だった。
「お口にあったみたいで、よかったです」
 顔を綻ばせて春奈が言うと、藤原が言った。
「…一か月、よく頑張ったな。素晴らしい出来栄えだった。少なからず感動したよ」
「本当ですか」
 褒められたのも嬉しかったが、口調が最初に会った時の気さくな感じに戻っていたのがとても嬉しかった。春奈の胸に安堵が広がる。
「…これなら、見合い結婚しても、料理で困ることはなさそうだ」
 あ、と春奈は困った顔をした。
 ホテルでも言ったけれど、やはりちゃんと、見合いの件は伝えた方がよさそうだ。
「あの、叔母がどうしても、と見合いをすすめてきて。断り切れずにお見合い、したんです。最初から断るっていうか先方に断ってほしくて。そしたら、たまたま猫の話で盛り上がってしまって…でもちゃんと結婚する気はありません、と言ったんです。そしたらお相手の方がじゃあ、時々お茶でも、と言ってくださって…流れで連絡先を交換してしまったというか…」
「ふうん。押し切られたら、結婚してしまいそうだな」
「そ、そんなことありません」
 春奈は、語気を強めに言った。自分から連絡したいと思っているのは、藤原だけなのだ。
 そこを伝えたいのに、うまく言葉にできない。
「それからもう一つ。簡単に男を自分の家にあげないこと」
 食後のお茶を飲みながら、藤原は言った。
「なんでですか」
 ふう、と藤原はため息をついた。
「君は自分が年頃の娘だという自覚が足りない。男を自宅にあげたら、勘違いする奴はたくさんいる。いきなり押し倒されても文句は言えないぞ」
「でも、藤原さんはそんなことしませんよね」
 にこっと微笑んで、春奈は言った。
「さあ。それはどうかな」
 藤原は、春奈の近くのローテブルの上に手を置くと、春奈に顔を近づけた。
 至近距離に藤原の美しい顔がある。春奈はぼうっと見とれた。
「スキだらけだな」