第2話
一か月後。
春奈は、先週からオフィスでバイトしている。データ入力が主な仕事だ。文字を追って、正確にキーボードを打つ。集中すると、無心になれることに、今週に入って気づいた。春奈は、割と没頭して何かをするのが好きだ。打ち込んでやっていると、外の気配や音など、なにも感じなくなる。そういう時に脳内快楽物質が出るタイプなのだ。
昨日、もらった仕事をやり終えて、ひと息ついていたら、上司の高見さんから、
「飲み込みが早いね」
と言われた。
ここにいていいってことかな。春奈は、ちょっと嬉しくなってほっとした。
どこかに居場所がある、ということは、本当にありがたい。
「春奈、お昼に行こうよ」
友恵から、肩を叩かれて、はっとする。そういえば、周囲の人は、誰も仕事をしていない。席を立ったり、デスクでお弁当を食べたりしている。
「また没頭してたんでしょ。ちゃんと時間、気にしないとお昼食べられなくなるよ」
「うん、一昨日、そうなった」
「マジ?隣の三田さんに、お昼よ、って教えてもらいなよ」
「いつも教えてくれるんだけど、その日、三田さんお休みで」
「あー。そういうこともあるか。お腹すいたでしょ」
「秘密の宝物がここに」
春奈がデスクの引き出しを開けると、栄養補助食品がぎっしりつまっていた。友恵は笑いながら、ランチ行こ、と春奈を立たせた。
会社の近くのベーカリーで、サンドイッチやマフィンを買って、公園で食べることにした。
木陰のベンチに座って、サンドイッチのセロファンを剥ぐ。
「どう?仕事、慣れた?」
友恵が、コーヒーを飲みながら言った。
「うん。思ってたより、面白いよ」
よかった、と言いながら友恵が、マフィンをかじる。友恵は、春奈の中学からの親友だ。祖母が亡くなって、半年。看病をする必要がなくなった春奈は、家でずっとぼんやりしてるのがもったいなくなって、友恵に相談した。
そこで、紹介してもらったのが、今のデータ入力のバイトだ。友恵は、同じ会社の総務部で働いてるが、人事部に顔がを効いて、データ入力スタッフを探しているのを知っていたのだった。春奈は、通信教育で大学を卒業しているというものの、バイトの経験もほぼなかった。会社というものに自分が馴染むかどうか、ドキドキしていたが、どうにかこうにか、今に至っている。
時々、おそるおそる入った女子の雑談の輪で春奈が発言すると、「片岡さん、面白いね」と言われ、喜んでいいのか、微妙なところだった。
「まあ、のんびりした社風が売りの会社だからさ、ゆっくりやっていけばいいよ」
「そうする」
家に一人でいると、いまだに祖母の「はるちゃんお茶ちょうだいよ」という声が聞こえないのが、不思議な気がする。亡くなってもう半年以上、経ったのに。気がつけば、ぽろりと泣いていたりして、さらに食事をするのも忘れたりして、健康的ではなかった。
働きだしたら、ちゃんとお腹がすくし、夜だって、決まった時間に眠って、朝、ちゃんと目覚ましで起きる。リズムができる、って大事だ、と春奈は、改めて思った。
「やば、やっくんからラインきてた」
友恵にはつきあって二年の彼氏がいて、いつもラブラブだ。連絡を取るのがマメな彼氏らしく、お昼を一緒に食べていても、友恵はやっくん対応に追われることが多い。
つきあうってそういうことなのかな、と春奈は思う。これまで彼氏がいたことがない。隣の晃は幼馴染で、男友達とも言えるのだが、異性として見たことがない。
ただ、春奈の心の中に恋のページがあるとして。以前は白紙のページだったのに、今では、あの藤原からもらったメモが記載されている。
連絡先が知りたい、なんて思ったことは初めてのことだった。だから、そのもらった連絡先を利用すればいいいのだ。そう思うけれど、男性に電話をかける、なんて春奈からしたら天竺にお経を取りに行くくらい遠いことに思える。
せっかく連絡先もらったのに…連絡してって藤原さんは言ったのに…
夜、寝る前にハーブティーを飲む。テーブルに、藤原のメモを置く。電話してみようか、と思い、時計を見ると、いやお風呂入ってるかも、とかお仕事中かも、とかいろいろ想像しては、電話できない理由をこじつけて逃げてしまう。
そんな時に、美味しかったおかゆや、やきそばを思いだす。藤原と交わした会話も、そらで唱えられるくらい何度も頭の中で再生している。
誰かが背中を押してくれたら、勇気が出るかもしれないのに。
いない誰かを恨めしく思う春奈がいる。
「ごめん。ラインしてたら、時間なくなっちゃった」
友恵が慌てて、食べていない方のパンを頬張った。
「いいよ。いいね、仲良くて」
うらやましく思いながら、食後のコーヒーを楽しみ、友恵が食べ終えるのを待つ。
昼休みが残り十分くらいになった。繁華街を抜けて、近道をして会社へ向うことにした。
「マルキベーカリー、安定の美味しさだね」
「うん、あそこにして正解」
そんなパン屋談義をしながら歩いていた時。
『そうですね。私どもとしても、皆さんが喜んでくれる、それを第一に考えているんです』
え、と春奈は、振り返った。聞き覚えのある声がした。振り向いた先には、背の高いビルがあり、大きな壁面を液晶にして映像を流していた。
春奈は、その映像に目が釘付けになった。
『これからの車椅子は、もっと進化していくと思うんです』
そう、画面の中で語っているのは。
あの、藤原だった。
「なんでっ…」
思わず、春奈が呟くと、友恵が言った。
「あ、この人、知ってる。最近、よくメディアで見かけるよね。車椅子開発の人でしょ。
イケメンだから、みんなほっとけないんじゃない」
「車椅子…?」
「あ、ほら、社名が出るよ。あ、このイケメンが社長なのね。代表取締役 藤原敏樹だって」
画面の下方に出るテロップを読みながら友恵が言った。
藤原さんが、社長…?
確かに、お世話になった邸宅は大きくて立派だった。ただ、藤原の気さくな感じと、春奈の持っている社長のイメージを重ならなかった。
藤原は三十歳くらいに、見えた。
若い社長さんなんだ…しかも、友恵の言い方からすると、有名人。
人の事をお嬢様呼ばわりしてた癖に、自分は社長様だったんじゃない。
連絡しよう、してみよう、みたいに逡巡していた自分が全くの見込みなしだという事に 気づく。自分と社長の藤原さんとは釣り合わない。
「春奈?行かないと遅れるよ」
「うん」
画面に釘付けになっていた春奈は、やっと友恵の方を見て返事をした。
悩むまでも、なかったな。そう自分に言って会社へ向かって歩き出した。
家に帰って、キッチンにあるダイニングテーブルに座って、スマホをいじる。
「藤原 車いす」と検索したら、たくさんの藤原についての記事が現れた。藤原のフルネームもわかった。藤原敏樹 32歳。社長に就任したのは、最近で、父である藤原修平氏の後を継いだ形になるらしい。
一か月後。
春奈は、先週からオフィスでバイトしている。データ入力が主な仕事だ。文字を追って、正確にキーボードを打つ。集中すると、無心になれることに、今週に入って気づいた。春奈は、割と没頭して何かをするのが好きだ。打ち込んでやっていると、外の気配や音など、なにも感じなくなる。そういう時に脳内快楽物質が出るタイプなのだ。
昨日、もらった仕事をやり終えて、ひと息ついていたら、上司の高見さんから、
「飲み込みが早いね」
と言われた。
ここにいていいってことかな。春奈は、ちょっと嬉しくなってほっとした。
どこかに居場所がある、ということは、本当にありがたい。
「春奈、お昼に行こうよ」
友恵から、肩を叩かれて、はっとする。そういえば、周囲の人は、誰も仕事をしていない。席を立ったり、デスクでお弁当を食べたりしている。
「また没頭してたんでしょ。ちゃんと時間、気にしないとお昼食べられなくなるよ」
「うん、一昨日、そうなった」
「マジ?隣の三田さんに、お昼よ、って教えてもらいなよ」
「いつも教えてくれるんだけど、その日、三田さんお休みで」
「あー。そういうこともあるか。お腹すいたでしょ」
「秘密の宝物がここに」
春奈がデスクの引き出しを開けると、栄養補助食品がぎっしりつまっていた。友恵は笑いながら、ランチ行こ、と春奈を立たせた。
会社の近くのベーカリーで、サンドイッチやマフィンを買って、公園で食べることにした。
木陰のベンチに座って、サンドイッチのセロファンを剥ぐ。
「どう?仕事、慣れた?」
友恵が、コーヒーを飲みながら言った。
「うん。思ってたより、面白いよ」
よかった、と言いながら友恵が、マフィンをかじる。友恵は、春奈の中学からの親友だ。祖母が亡くなって、半年。看病をする必要がなくなった春奈は、家でずっとぼんやりしてるのがもったいなくなって、友恵に相談した。
そこで、紹介してもらったのが、今のデータ入力のバイトだ。友恵は、同じ会社の総務部で働いてるが、人事部に顔がを効いて、データ入力スタッフを探しているのを知っていたのだった。春奈は、通信教育で大学を卒業しているというものの、バイトの経験もほぼなかった。会社というものに自分が馴染むかどうか、ドキドキしていたが、どうにかこうにか、今に至っている。
時々、おそるおそる入った女子の雑談の輪で春奈が発言すると、「片岡さん、面白いね」と言われ、喜んでいいのか、微妙なところだった。
「まあ、のんびりした社風が売りの会社だからさ、ゆっくりやっていけばいいよ」
「そうする」
家に一人でいると、いまだに祖母の「はるちゃんお茶ちょうだいよ」という声が聞こえないのが、不思議な気がする。亡くなってもう半年以上、経ったのに。気がつけば、ぽろりと泣いていたりして、さらに食事をするのも忘れたりして、健康的ではなかった。
働きだしたら、ちゃんとお腹がすくし、夜だって、決まった時間に眠って、朝、ちゃんと目覚ましで起きる。リズムができる、って大事だ、と春奈は、改めて思った。
「やば、やっくんからラインきてた」
友恵にはつきあって二年の彼氏がいて、いつもラブラブだ。連絡を取るのがマメな彼氏らしく、お昼を一緒に食べていても、友恵はやっくん対応に追われることが多い。
つきあうってそういうことなのかな、と春奈は思う。これまで彼氏がいたことがない。隣の晃は幼馴染で、男友達とも言えるのだが、異性として見たことがない。
ただ、春奈の心の中に恋のページがあるとして。以前は白紙のページだったのに、今では、あの藤原からもらったメモが記載されている。
連絡先が知りたい、なんて思ったことは初めてのことだった。だから、そのもらった連絡先を利用すればいいいのだ。そう思うけれど、男性に電話をかける、なんて春奈からしたら天竺にお経を取りに行くくらい遠いことに思える。
せっかく連絡先もらったのに…連絡してって藤原さんは言ったのに…
夜、寝る前にハーブティーを飲む。テーブルに、藤原のメモを置く。電話してみようか、と思い、時計を見ると、いやお風呂入ってるかも、とかお仕事中かも、とかいろいろ想像しては、電話できない理由をこじつけて逃げてしまう。
そんな時に、美味しかったおかゆや、やきそばを思いだす。藤原と交わした会話も、そらで唱えられるくらい何度も頭の中で再生している。
誰かが背中を押してくれたら、勇気が出るかもしれないのに。
いない誰かを恨めしく思う春奈がいる。
「ごめん。ラインしてたら、時間なくなっちゃった」
友恵が慌てて、食べていない方のパンを頬張った。
「いいよ。いいね、仲良くて」
うらやましく思いながら、食後のコーヒーを楽しみ、友恵が食べ終えるのを待つ。
昼休みが残り十分くらいになった。繁華街を抜けて、近道をして会社へ向うことにした。
「マルキベーカリー、安定の美味しさだね」
「うん、あそこにして正解」
そんなパン屋談義をしながら歩いていた時。
『そうですね。私どもとしても、皆さんが喜んでくれる、それを第一に考えているんです』
え、と春奈は、振り返った。聞き覚えのある声がした。振り向いた先には、背の高いビルがあり、大きな壁面を液晶にして映像を流していた。
春奈は、その映像に目が釘付けになった。
『これからの車椅子は、もっと進化していくと思うんです』
そう、画面の中で語っているのは。
あの、藤原だった。
「なんでっ…」
思わず、春奈が呟くと、友恵が言った。
「あ、この人、知ってる。最近、よくメディアで見かけるよね。車椅子開発の人でしょ。
イケメンだから、みんなほっとけないんじゃない」
「車椅子…?」
「あ、ほら、社名が出るよ。あ、このイケメンが社長なのね。代表取締役 藤原敏樹だって」
画面の下方に出るテロップを読みながら友恵が言った。
藤原さんが、社長…?
確かに、お世話になった邸宅は大きくて立派だった。ただ、藤原の気さくな感じと、春奈の持っている社長のイメージを重ならなかった。
藤原は三十歳くらいに、見えた。
若い社長さんなんだ…しかも、友恵の言い方からすると、有名人。
人の事をお嬢様呼ばわりしてた癖に、自分は社長様だったんじゃない。
連絡しよう、してみよう、みたいに逡巡していた自分が全くの見込みなしだという事に 気づく。自分と社長の藤原さんとは釣り合わない。
「春奈?行かないと遅れるよ」
「うん」
画面に釘付けになっていた春奈は、やっと友恵の方を見て返事をした。
悩むまでも、なかったな。そう自分に言って会社へ向かって歩き出した。
家に帰って、キッチンにあるダイニングテーブルに座って、スマホをいじる。
「藤原 車いす」と検索したら、たくさんの藤原についての記事が現れた。藤原のフルネームもわかった。藤原敏樹 32歳。社長に就任したのは、最近で、父である藤原修平氏の後を継いだ形になるらしい。



