御曹司の甘いささやきと、わたし

 脇に植え込みのあるスロープを降りて門の前で待っていると黒のレグザスが止まった。藤原が車を移動させてくれたのだ。
車に乗り込み、しばらく無言になった。春奈は改めて御礼を言う必要がある、と思った。
「あの、お部屋や服もお借りして、おかゆと朝食と焼きそばもごちそうになって、本当に、ありがとうございました」
 藤原は前を向いたまま、言った。
「焼きそばは、君が作っただろ」
「あれを作ったと言えるかどうか…」
「言っていいさ。君だって、俺にバスの乗り方を教えてくれたろ。おあいこだ」
「9対1くらいの割合で、全然おあいこじゃないですよ」
「男一人の休暇に少し彩りが加わった。そう思えばおあいこだよ」
 彩り。自分が?美しい藤原に言われても、ぴんとこない。
 リップサービスのようないやらしさはないのに、藤原は、春奈の心を軽くしてくれる。
 誰に対しても、そうだとしたら、これはもう、ひとたらしと言っていいだろう。
 きっとモテモテで大変なんだろうな。周りが美女ばかりで、私みたいなのが来たから、変わり種で面白かったんだわ、きっと。
 そう思うと、非常に納得してしまい、さっきよりもさらに、藤原の連絡先をきく勇気が無くなってしまった。
「そろそろ昨日のバス停だ」
「あっ、ここから、帰れます」
「そうか。悪いな。ちょっと時間がなくて。じゃあ、ここで」
 車が止まった。春奈が降りようと体の向きを変えたとき、春奈さん、と呼ばれた。
「これ、俺の連絡先。何かあったら連絡して」
 小さなメモに、電話番号が書かれていた。春奈はとっさに言葉が出ず、口をぱくぱくさせた。後ろの車にクラクションを鳴らされ、慌てて車を降りる。
「じゃ」
 藤原は、薄い笑みを浮かべて春奈を見た後、前を見て発進した。
「ありがとうございましたっ…」
 聞こえないとわかっていても、春奈はそう言って去っていく車を見送った。手には、さっきのメモが握られていた。