御曹司の甘いささやきと、わたし

「あのままじゃ、お母さん、せっかくの料理が食べられないと思って…少しは役に立ったでしょうか」
「立ってるよ。俺は婚約者の知らない一面をまた見れて面白かったよ」
 春奈は、少し恥ずかしいような、うれしいような気持ちで満たされ、思わず笑みを浮かべてしまった。

 二週間後。
 春奈の肖像画の仕事も軌道に乗り、忙しくしていたが、一区切りついたので、今日は祖母の家の方に来ていた。
「あ、お嬢様、そのほうれん草、ざるにあげてくださいな」
「はい。白和えにするんだっけ?」
「ええ。お豆腐はもう水切りしてあります」
「じゃあ味付けするね」
 今日は、ミネが来る日で、一緒に台所で何品も料理を作っている。夕方から、友恵や晃がやってくることになっている。
 晴れて、結婚が決まったので、春奈の婚約者である敏樹を、皆にお披露目しようという事になったのだ。
「それにしても、お嬢様、料理の腕が上達しましたねえ」
「ミネさんから教わったレシピが中心よ。だからじゃない」
「いえいえ。好きな殿方に食べさせてあげようっていう気持ちが大事なんです。おのずと丁寧に作れるようになっていくものです」
「そう…かな。だといいけど」
 少し照れながら、そんな話をしている内に、友恵がやって来た。
「春奈、来たよ。何なの、まめに連絡くれる、って言ってたのに、さっぱりじゃない」
 開口一番、むくれられてしまった。
「ごめん、ごめん。絵を描くのに夢中で、なかなか連絡できなくて」
「…そっか。前みたいに描けてるんだ。よかったじゃない」
 むくれていた顔を、友恵が優しい笑顔に変えて言った。
「うん…実はそれと」
 そこまで、言ったら今度は、敏樹がやって来た。
「そこで晃君に会ったよ。ビールのケース抱えてたから、手伝ってきた」
「…俺はいい、って言ったんだがよ」
 敏樹の背後から晃が現れる。憎まれ口はいつものことだ。
「今日は思う存分飲んでくれ。男性陣は俺と晃君だけなんだ。一緒に飲んでくれる?」
「お、おう」
 つっけんどんな態度だが、敏樹を嫌いなわけではないらしい。
「いつも春奈が絵のことでお世話になってるからな。俺からも御礼を言いたくて。ありがとう。君のおかげで、春奈は毎日、生き生きしてるよ」
「ふ…ふん。俺は、取り分があるから仕方なくやってるだけだよ」
「それでも助かってるのは事実だ」
 晃は照れくさくなったのか、ミネさん、このビール冷やして、と声をあげた。
 皆でテーブルを囲む食事会は、つつがなく時間が過ぎていった。会も終盤になり、春奈は、皆に聞いてほしいことがある、と言った。
 何、と皆がいっせいに春奈を見る。
「また絵が描けるようになったのは、本当に皆さんのおかげなんだけど…報告することがあって。私、この家の…おばあちゃんがいた部屋に入っても、咳が出なくなったの。うまく言えないけど、敏樹さんと暮らして、前みたいに絵を描いて過ごしてる内に、何か自分の中の軸がピンと立ってきた気がするの。そして、おばあちゃんの事も、できるだけ楽しかった思い出を思い出すようにしたし…
 だから。この家でも絵を描けると思うんだけど、実際、もう敏樹さんの家のアトリエで肖像画作業は進んでてね。ミネさんにこの祖母の家を掃除してもらってるだけで、空き家になってるのがもったいないなって思って…」
 皆、春奈の方を見ている。よく知った面々で、春奈は心軽く、言葉を続けた。
「あのね、この家で、子供用の絵画教室をやりたいの」
「絵画教室」
 まっさきに反応したのは敏樹だった。
「うん。おばあちゃんの部屋の窓を開ければ、解放的になるし。最初は生徒さんは、ニ三人だっていいの。私が絵で救われてきたように、子供たちに絵の素晴らしさを伝えていきたいの。いつだったか、レストランで子供に絵を描いてあげたとき、そんな気持ちがむくむくわいてきて…生徒さん集めるのも大変かもしれないけど、やってみたい。そう思ってるの」
 ほう、と感嘆のため息が皆の口からもれた。
「それ、いいじゃない。春奈、先生似合いそう」
 友恵がわくわくした顔で言う。
「そうだな。教えることも絵を描く上でプラスになるんじゃないか」
 敏樹も穏やかな笑みを携えて言った。
「集客なんか、俺がやってやるよ。その代わり手間賃もらうけどな」
「晃さん、また取りすぎないでくださいよ」
 晃にミネさんが、びしっと言ったので、皆が爆笑した。

「絵画教室かあ、そんなこと考えてたんだなあ」
 宴も終わり、キッチンのシンクで春奈が食器を洗い、敏樹に拭いてもらっていた。皆、よく飲み、食べたので、後片付けが大変だ。
 もう遅い時間だったので、ミネには帰ってもらった。お嬢様を、よろしくお願いしますね、としっかりとした言葉を残して。
「まだ細かいことは全然考えてないんですけど…無謀でしょうか」
 春奈は敏樹の方を見て、言った。
「いや、いいんじゃないか。この家でやるっていうのもコストカットになるし。何しろ春奈がやりたいんだろう。だったら意欲的にやるべきだよ」
 春奈は、微笑んだ。
 この人はいつも、気持ちよく背中を押してくれる。
 大好きな、旦那様になる人。
「あの、どうしても私の話になりがちなので、敏樹さんのお話も聞きたいです。何かありませんでしたか?」
 いつも春奈の話を聞いてもらうばかりで心苦しい。
「うーん、そういえば会社のベランダにスズメが来てた」
「えっ、スズメが?」
「初めて見たよ。食べるものとか全然ないと思うんだが、なんか食ってたなあ。物珍しくてずっと見てた」
「そういう動物との突然の出会いってきゅんとしますよね。私、祖母とうなぎ屋さんに行った時に、お店のお庭にイタチがいるのを見て、感動しました」
「イタチかあ、なかなかレアだな」
 他愛のない話がいくらでもできる。一緒に食べる朝食の楽しさ、敏樹が帰宅してからのちょっとした晩酌につきあうこと。そんなささいな事が、春奈の中で、大きなエネルギーになっていく。
 自分も、敏樹にとって、そんな存在でありますように、と切に願う。

 祖母の死、絵が描けなくなったこと。できなかった料理。乗れなかった自転車。いろんなものが、敏樹といることで、できるようになった。
 いったいどれだけ感謝して、お返ししていけばいいのだろう。
 とんでもなく時間はかかりそうだけど。
 一日、一日を大切に生きて、敏樹さんにお返ししていこう。

 季節はもう夏で、キッチンの小窓を開けたら風が入ってきて涼しい。
 風が、敏樹の髪の毛をふわりとなびかせた。
 敏樹の美しい横顔が風にさらされる。

 それを見ながら春奈は改めて思った。

 私の旦那様、これからもどうぞよろしくお願いします。

 夜はこれから、さらに更けていきそうだ。               <了>