御曹司の甘いささやきと、わたし

【 エピローグ 】
 
旅館くらしきをチェックアウトして、春奈は敏樹と共に、また広島へと戻った。敏樹は、雄一に春奈を婚約者として紹介したい、と言い、春奈も雄一に話したいことがあった。
 昼頃、展覧会会場に到着した春奈達は、応接室で休憩している雄一に会うことができた。
 敏樹は言った。
「こちらが春奈。今、うちで同棲していて、結婚を考えている婚約者だ」
 はっきりそう言ってもらえて、春奈は嬉しかった。
「君が春奈さんか。お会いできてよかった。敏樹の兄です」
 応接室のソファから立ち上がり、穏やかな笑顔を見せて雄一は言った。やはり兄弟である分、敏樹と雄一は顔が似ていた。雰囲気が、雄一の方が落ち着いていて、静かな事が好きそうに見えた。画廊の仕事はだとしたら天職なのではないだろうか。
「はじめまして片岡春奈です。敏樹さんには、お世話になっています。…あの、私、雄一さんの絵に、すごく励まされたんです。その事で御礼を言いたくて」
「俺の絵?」
 春奈はこくりと頷き、応接室の壁にかかった絵に視線をやった。
 そこには、雄一が描いたという、庭に埋められていたルリの絵があった。
「はい。この絵を観た時、すごく心を動かされて…私、訳があって、絵が描けなくなっていたんです。でも、この絵を観ていたら、なんていうか、絵を描きたい気持ちが漲ってきて。一週間ほど、集中して絵を描くことができました。だから、雄一さんにその御礼を言いたくて。雄一さんの絵が、私に描かせてくれたんです」
「はあ…」
 春奈からそんな事を言われるとは想定外だったのだろう。雄一は不思議そうな顔をしている。そこで敏樹が助け船を出した。
「春奈はね、肖像画画家なんだ。結構肖像画を描いてくれ、というオファーがあるらしい。
ちょっとスランプっていうか、春奈自身が絵を乗って描けない時に、兄貴の絵を庭で掘り出して。この絵を観て、絵を描くスイッチが入って…すごかったよ。俺に朝食を作ってくれる以外は、没頭して絵を描いていた。だから今、兄貴が学生時代使ってたアトリエ、春奈が使ってる」
「そうか…俺の絵なんかで、そう言ってもらえると嬉しいよ。春奈さんの絵も観てみたいな。もちろんこれは画廊としての意見。東京の実家に行った時には、春奈さんの絵をぜひ、観せてください」
「はい、お願いします」
 これまで絵を描いた評価は、肖像画を描いた本人(たまに家族のこともあるが)から聞くことしかできなかった。画廊で絵の道のプロである雄一に、絵を評価してもらうのは、怖い気もするが、わくわくもする。
 そして、何より敏樹の兄である雄一に、春奈は好感を持った。静かなたたずまいで、色んなことを熟知してそうだ。敏樹にはない魅力がある。義理のお兄さんになるかも、なんだ…と、改めて、嬉しくなった。
 雄一は応接室で書類仕事をしており、春奈と敏樹は辞去し、展示されている鮎川ひろみの絵を観に行くことにした。
 鮎川ひろみの絵は、斬新なタッチで、どれも引き込まれた。赤を基調とした迫力のある絵が多かった。しかし、決して奇をてらっているのではなく、描いている物の本質を捉えようとする意気込みはすごい、と春奈は思った。
 絵を見ながら、敏樹が言った。
「鮎川ひろみは、ルリさんのことを実の妹みたいに大事にしてくれているんだそうだ。彼女に対峙しているときは、ルリさんはプロのメイクアップアーティストとして立派に仕事をしてた、と兄が言っていたよ」
「そうだったんですか…」
 春奈は、ほっとした気持ちになった。雄一さんへの恨みがなかったら、とても素敵な女性だと思う。そこまで考えて、春奈は、つい考えてしまうことにぶつかった。
「あの…敏樹さんは、今は違うかもしれないけど、以前はルリさんの事が好きな時期がありましたか…?」
 口にするだけでもドキドキしてくる。割り切れればいいのに、やはり訊かずにはいられなかった。
 敏樹は、うん?と春奈の顔を見た。
「そうだなあ。中学生の頃は、確かに綺麗な人だと兄を羨ましく思ってたかもしれない。でも、兄と別れてうちにも来なくなったから自然と忘れていたな。どちらかと言えば、ルリさんと別れて一人で海外へ行った兄貴の方を心配してたかな」
「そうなんですか…」
 改めて言葉を聞くと、春奈は気持ちがほっこりした。推測するのと、実際に敏樹に言ってもらうのとでは、やはり全然違った。
 敏樹は、春奈を見つめて、いたずらっぽく耳元でささやいた。
「今は、君に夢中だから安心してくれ。俺の愛がまだ足りないようだったら今夜またベッドでその補充を」
「だだだ大丈夫です。足りていますっ」
 春奈は、真っ赤になって答えた。敏樹はくすくすと笑った。敏樹さんの言葉を信じて、ルリさんの事は忘れよう。もっと自分に自信を持って、敏樹さんの愛に応えなくちゃ。
 そう言い聞かせながら展覧会の、残りの絵を観ていった。
「来てよかったです、敏樹さん。また絵が描きたくなりました」
 展覧会会場を後にして、レストランで昼食をとっている時に、春奈は言った。
「そうか。春奈にとって、有意義なものになったのならよかった」
「はい…自分ではない人の作品に触れて、触発されるのって大事ですね。すごくためになりました」
「春奈、俺のことも絵に描いてくれる?」
「もちろんです…でも、何だがドキドキしそう。冷静に描けるかな」
 好きな人の絵を描いたことがなかった春奈はちょっと不安になった。
「大丈夫。これからの人生、ずっと一緒なんだ。春奈が描けそうと思った時に描いてくれたらいいよ。期待してる」
 そう言って敏樹は、食後のコーヒーを飲んだ。
 コーヒーのカップを持つ指先が長くて美しい。美形の敏樹の美しさを自分の絵で現すことができるだろうか、と少し不安になる。だが、これから敏樹の絵を描くチャンスならいくらでもあるのだ。春奈は改めて、どんどん絵を描いていこう、と決めた。
 レストランの隣の席で、五歳くらいの男の子が、わんわん泣いていた。何が気に入らないのか、食事にも手をつけない。一緒にいるお母さんが、困ってしまっている。
 春奈はそっとその様子を見て、紙ナプキンに、さっと絵を描いた。
 席から立ち上がり、泣いている男の子の側に行く。春奈は、今描いた絵を男の子に見せた。
「これ、好きでしょう。あげる」
「あっ、レイダーアーツだ!」
 春奈は、男の子の脇にあった子供用のリュックに、そのレイダーアーツの大きなキーホルダーがぶら下がっており、その絵をさっと描いたのだった。
「お姉ちゃん、ありがとう」
 男の子は、突然のプレゼントに、気をよくしたようで、泣くのをやめた。
「これ、お姉ちゃんが描いたの?」
「うん。ここにキーホルダーがあるでしょ。これを見て描いたよ」
「すごい。僕も描いてみたい」
「じゃあ、このナプキンに描いてみようか。レイダーアーツは、耳を丁寧に描くと似るよ」
 果たして。ナプキンの上には男の子の手によって、いささか乱暴ではあるものの、ちゃんとレイダーアーツとわかる絵が描かれた。
「わあ、上手に描けたわね。ありがとうございます」
 男の子の母親が、立ち上がり、腰を折って御礼を言う。春奈は恐縮して、自分の席に戻った。
「なかなかやるね。春奈」