自分一人で生きていく、と考えた時に、やっぱり自分は絵を描いていきたい、そう強く思った。祖母の家の近くにアパートを借りて、絵を描いて暮らす。そんなのもいいかもしれない。そうすれば晃とも連絡が取りやすく、やってくるオファーに対応できるだろう。
春奈は、いつまでも布団の中にいるのが嫌で、今日のスケジュールを考えた。
そうだ、大原美術館に行こう。
歴史のある美術館だ。実は、春奈は両親がまだ生きていた子供のころ、この旅館くらしきに泊まり、大原美術館を観て帰ったことがあった。
旅館くらしきの女将は、まだ小学生の春奈にも、両親たちと同じように玄関奥の座敷に座らせ、お抹茶をたて、飲ませてくれた。
大人と同じに扱われたことに感激し、そしてお抹茶の深い味にも感銘を受けた。
そんな思い出があったので、大人になってから一度来たいと思っていたのだ。昨日、広島からやって来た時も、その小学生の時と、まったく変らないもてなしかたで、お抹茶をいただいた。
春奈は、気持ちが疲れていて、ぼうっとしていたが、お抹茶の味に何か救われたような気がした。
旅館くらしきから大原美術館は、すぐ近くだ。
さすがに昨日の昼と夜、ほとんど食べていなかったので、お腹がすいた。旅館の朝食を食べてから大原美術館に行く事にした。着替えて化粧をしたり、布団をたたんだりしていたら、だんだん、気持ちがすっきりしてきた。朝食も半分くらいは食べることができた。
しっかりしてきた足取りで、旅館から出る。
空は気持ちのいい快晴で、外を歩くのには申し分なかった。
こじんまりとした可愛らしさのある大原美術館に、チケットを買って入っていく。
一枚、一枚、丁寧に絵を観ていく。
…そうだ、敏樹さんと出会ったのも、美術館だった。倒れた私を助けてくれた敏樹さん。それから料理を教えてくれた。もう何度も作っているので、やきそばは得意料理になった。
さっき旅館で食べた朝食には、敏樹が好きなかれいの煮つけがあった。どうしても食べさせてあげたいという気持ちが生まれてしまう。
春奈は、一枚、一枚、絵を観ていた。絵の中に入り込もうとしていた。
だが、敏樹との思い出が迫ってきて、気づけば歩きながら涙をこぼしていた。
私は、敏樹さんが好き…。
どうしようもなく、好きなんだ…。
あの豪華列車の旅で敏樹に抱かれたけれど、敏樹から春奈を好きだと言うことはなかった。そのことを不安に思っていた。
だが。
自分は、どうなんだろう。
敏樹に求めるばかりで、自分だって敏樹に面と向って好きだと言っていないではないか。
敏樹のことで胸の内をいっぱいにしているから、その気持ちは伝わっているような気がしていた。甘い戯れは敏樹だって春奈が敏樹のことを好きだと思っているから…。
でも、本当に、そうだろうか。
一言も言葉にしないで、自分の気持ちを伝えることなんて、本当はできやしないんじゃないか。
相手に察してもらおうというのは、甘え以外の何ものでもない。
私、ちゃんと、敏樹さんに、好きだって、言いたい。
そのひらめきは、ぶわっと春奈を包む空間の色をカラーに変えた。
ネガティブな気持ちを隠すことばかりを考えていたけれど。
私は、こんなに敏樹さんが好きな事を、うちあけていないのだ。
好きだと告白して、ルリへの嫉妬だって見えてしまうかもしれない。
でも、それを敏樹がどう受け止めるかは、春奈にはわからない。
告白してみないと、わからないことが、きっとある。
春奈は、瞳から流れる涙を拭いて、しっかりと絵を観た。
エル・グレコの「受胎告知」を観たら、ふつふつと前向きな気持ちがわいてきた。
絵も描きたい。そして…敏樹さんに、好きだって言いたい。
敏樹と離れるかどうかは、告白してから決めても遅くないはずだ。
会いたい…敏樹さん。
祈るような目でぐっとエル・グレコの絵を見つめた。
「春奈は、その絵が好きなんだな」
春奈は、耳を疑った。ついに敏樹の幻聴まで聞こえたかと。
しかし、違った。春奈の隣には、昨日と同じ服装をした、敏樹が立っていた。
「どうして、ここが…」
春奈は目を見張って敏樹を見た。
「なんだ、自分で言っていて忘れたのか。最初に会った時大原美術館にまた行きたいって言ってただろう?」
「そんな前のことを…覚えてくれてたんですか?」
「当たり前だ。好きな女の台詞くらい、一字一句覚えてるもんだ。…昨日は、一旦、君の祖母の家に行ったんで、こっちに来るのが遅くなった。ミネさんも心配してたぞ」
いらない心配をかけてしまった。帰ったら、ミネさんに謝らなくちゃ。
そこまで考えて、はっとした。
敏樹さん、今、好きな女って言った?
「と、敏樹さん」
声がうわずってしまう。
「敏樹さんは、私の事が好きですか」
「好きだよ。なんなら、愛してると言ってもいい」
午前中で平日の美術館で、人がそんなにいないのが助かった。
春奈は大粒の涙をぼろりとこぼした。
「私…ルリさんに嫉妬してしまって。ぐちゃぐちゃなんです。とてもこんな気持ち敏樹さんに見せられない。でも、敏樹さんを好きな気持ちだって本当なんです…」
しゃくりあげる春奈を、敏樹は、そっと抱きしめた。
「俺は、春奈が丸ごと好きなんだ。どんな事を考えてたっていい、それが春奈だと思って受け入れる覚悟がある。…嫉妬は、おあいこだよ。俺がどれだけ晃君に嫉妬したと思ってるんだ」
「敏樹さんが…?」
思いがけないところから出てきた敏樹の本音に、春奈はぎゅっときつく閉じていた心がほぐれるのを感じた。
そうか。嫉妬なんて、誰でもするんだ。敏樹さんだってするんだ…。
それは、びっくりするくらい当たり前のようで、でも春奈にはさっきまで思いつくことができなかった。
「だから。また俺と暮らそう。春奈が作る朝食は大好きだし、絵を描いてる春奈を観てるのだって好きだ。こんなに人を好きになったことないんだ。頼むから側にいてくれ」
春奈は、目に見えない温かいシャワーを頭からかけられている気がした。
昨日、あんなに敏樹ともう一緒にいられない、と固く思い込んでいたのが嘘のようだ。
この世で一番そう言ってほしい人に、「側にいてくれ」と言われた。
どんな美しいプロポーズよりも、それは効いた。
私、敏樹さんの側にいて、いいんだ…!春奈は、敏樹に回した手にぎゅっと力を入れた。
敏樹が、春奈を抱く腕を緩めた。
「ちゃんと言おうと思ってたんだが、今、言いたくなった。春奈、改めて俺と結婚してくれ。契約結婚じゃない。俺とちゃんとした夫婦になってほしいんだ。籍も入れて、俺の親にも紹介するから、ミネさんを俺に紹介してくれ」
プロポーズよりもいい言葉が聞けた、と思ったら、本物のプロポーズまでされてしまった。春奈は頭が追いつかなくなってる。
ということは契約結婚は解消で…敏樹さんの本当の奥さんになれる。
「い、いいんですか…私なんかで…」
狐につままれたような顔をして、敏樹の目を覗き込んだ。
「いいって言ってるだろう。俺は君がいいんだ。そんなに何度も言わせるな」
春奈は、いつまでも布団の中にいるのが嫌で、今日のスケジュールを考えた。
そうだ、大原美術館に行こう。
歴史のある美術館だ。実は、春奈は両親がまだ生きていた子供のころ、この旅館くらしきに泊まり、大原美術館を観て帰ったことがあった。
旅館くらしきの女将は、まだ小学生の春奈にも、両親たちと同じように玄関奥の座敷に座らせ、お抹茶をたて、飲ませてくれた。
大人と同じに扱われたことに感激し、そしてお抹茶の深い味にも感銘を受けた。
そんな思い出があったので、大人になってから一度来たいと思っていたのだ。昨日、広島からやって来た時も、その小学生の時と、まったく変らないもてなしかたで、お抹茶をいただいた。
春奈は、気持ちが疲れていて、ぼうっとしていたが、お抹茶の味に何か救われたような気がした。
旅館くらしきから大原美術館は、すぐ近くだ。
さすがに昨日の昼と夜、ほとんど食べていなかったので、お腹がすいた。旅館の朝食を食べてから大原美術館に行く事にした。着替えて化粧をしたり、布団をたたんだりしていたら、だんだん、気持ちがすっきりしてきた。朝食も半分くらいは食べることができた。
しっかりしてきた足取りで、旅館から出る。
空は気持ちのいい快晴で、外を歩くのには申し分なかった。
こじんまりとした可愛らしさのある大原美術館に、チケットを買って入っていく。
一枚、一枚、丁寧に絵を観ていく。
…そうだ、敏樹さんと出会ったのも、美術館だった。倒れた私を助けてくれた敏樹さん。それから料理を教えてくれた。もう何度も作っているので、やきそばは得意料理になった。
さっき旅館で食べた朝食には、敏樹が好きなかれいの煮つけがあった。どうしても食べさせてあげたいという気持ちが生まれてしまう。
春奈は、一枚、一枚、絵を観ていた。絵の中に入り込もうとしていた。
だが、敏樹との思い出が迫ってきて、気づけば歩きながら涙をこぼしていた。
私は、敏樹さんが好き…。
どうしようもなく、好きなんだ…。
あの豪華列車の旅で敏樹に抱かれたけれど、敏樹から春奈を好きだと言うことはなかった。そのことを不安に思っていた。
だが。
自分は、どうなんだろう。
敏樹に求めるばかりで、自分だって敏樹に面と向って好きだと言っていないではないか。
敏樹のことで胸の内をいっぱいにしているから、その気持ちは伝わっているような気がしていた。甘い戯れは敏樹だって春奈が敏樹のことを好きだと思っているから…。
でも、本当に、そうだろうか。
一言も言葉にしないで、自分の気持ちを伝えることなんて、本当はできやしないんじゃないか。
相手に察してもらおうというのは、甘え以外の何ものでもない。
私、ちゃんと、敏樹さんに、好きだって、言いたい。
そのひらめきは、ぶわっと春奈を包む空間の色をカラーに変えた。
ネガティブな気持ちを隠すことばかりを考えていたけれど。
私は、こんなに敏樹さんが好きな事を、うちあけていないのだ。
好きだと告白して、ルリへの嫉妬だって見えてしまうかもしれない。
でも、それを敏樹がどう受け止めるかは、春奈にはわからない。
告白してみないと、わからないことが、きっとある。
春奈は、瞳から流れる涙を拭いて、しっかりと絵を観た。
エル・グレコの「受胎告知」を観たら、ふつふつと前向きな気持ちがわいてきた。
絵も描きたい。そして…敏樹さんに、好きだって言いたい。
敏樹と離れるかどうかは、告白してから決めても遅くないはずだ。
会いたい…敏樹さん。
祈るような目でぐっとエル・グレコの絵を見つめた。
「春奈は、その絵が好きなんだな」
春奈は、耳を疑った。ついに敏樹の幻聴まで聞こえたかと。
しかし、違った。春奈の隣には、昨日と同じ服装をした、敏樹が立っていた。
「どうして、ここが…」
春奈は目を見張って敏樹を見た。
「なんだ、自分で言っていて忘れたのか。最初に会った時大原美術館にまた行きたいって言ってただろう?」
「そんな前のことを…覚えてくれてたんですか?」
「当たり前だ。好きな女の台詞くらい、一字一句覚えてるもんだ。…昨日は、一旦、君の祖母の家に行ったんで、こっちに来るのが遅くなった。ミネさんも心配してたぞ」
いらない心配をかけてしまった。帰ったら、ミネさんに謝らなくちゃ。
そこまで考えて、はっとした。
敏樹さん、今、好きな女って言った?
「と、敏樹さん」
声がうわずってしまう。
「敏樹さんは、私の事が好きですか」
「好きだよ。なんなら、愛してると言ってもいい」
午前中で平日の美術館で、人がそんなにいないのが助かった。
春奈は大粒の涙をぼろりとこぼした。
「私…ルリさんに嫉妬してしまって。ぐちゃぐちゃなんです。とてもこんな気持ち敏樹さんに見せられない。でも、敏樹さんを好きな気持ちだって本当なんです…」
しゃくりあげる春奈を、敏樹は、そっと抱きしめた。
「俺は、春奈が丸ごと好きなんだ。どんな事を考えてたっていい、それが春奈だと思って受け入れる覚悟がある。…嫉妬は、おあいこだよ。俺がどれだけ晃君に嫉妬したと思ってるんだ」
「敏樹さんが…?」
思いがけないところから出てきた敏樹の本音に、春奈はぎゅっときつく閉じていた心がほぐれるのを感じた。
そうか。嫉妬なんて、誰でもするんだ。敏樹さんだってするんだ…。
それは、びっくりするくらい当たり前のようで、でも春奈にはさっきまで思いつくことができなかった。
「だから。また俺と暮らそう。春奈が作る朝食は大好きだし、絵を描いてる春奈を観てるのだって好きだ。こんなに人を好きになったことないんだ。頼むから側にいてくれ」
春奈は、目に見えない温かいシャワーを頭からかけられている気がした。
昨日、あんなに敏樹ともう一緒にいられない、と固く思い込んでいたのが嘘のようだ。
この世で一番そう言ってほしい人に、「側にいてくれ」と言われた。
どんな美しいプロポーズよりも、それは効いた。
私、敏樹さんの側にいて、いいんだ…!春奈は、敏樹に回した手にぎゅっと力を入れた。
敏樹が、春奈を抱く腕を緩めた。
「ちゃんと言おうと思ってたんだが、今、言いたくなった。春奈、改めて俺と結婚してくれ。契約結婚じゃない。俺とちゃんとした夫婦になってほしいんだ。籍も入れて、俺の親にも紹介するから、ミネさんを俺に紹介してくれ」
プロポーズよりもいい言葉が聞けた、と思ったら、本物のプロポーズまでされてしまった。春奈は頭が追いつかなくなってる。
ということは契約結婚は解消で…敏樹さんの本当の奥さんになれる。
「い、いいんですか…私なんかで…」
狐につままれたような顔をして、敏樹の目を覗き込んだ。
「いいって言ってるだろう。俺は君がいいんだ。そんなに何度も言わせるな」



