御曹司の甘いささやきと、わたし

「俺が庭に埋められていた絵を兄に渡す、と言った時、あなたは『肌の色がくすむ』と言った。あなたは何の絵が埋められていたか知るはずないのに。あなたはこの絵が自分を描いたものだと知っていた。自分でこの絵を埋めたからだ」
 ルリさんは、兄を見る目を緩めることなく厳しい目で見つめ、そして言った。
「そう。私がこの絵を藤原家の庭に埋めたの。絵がなくなっても、雄一は気にしないと思ってた。でも違った、あなたは随分、あの絵を探し回った。それを見て、私は溜飲が下がった。そうよ、はっきり言ってせいせいしたわ。あなたの大事にしていたものを私は奪ってやった…だから、私はあなたと別れることができたの。あなたを傷つけることで、関係を清算することができたのよ」
「…本当にそうかな」
 俺は言った。
「本当に、兄から絵を奪ってやりたかったら、燃やすなりなんなりしたはずだ。でもそうはしなかった。兄さん、この絵は、俺のタイムカプセルの横に埋めてあったよ。いつかタイムカプセルと共に掘り出される。それを見越してルリさんは、そこに埋めた。ルリさんは愛する兄貴の絵を葬ることなんて、できなかったんだ」
 そこまで言うと、ルリさんは、う、と声をもらし、目に涙をあふれさせた。
 ゆっくり、兄がルリさんに近づいていく。
 兄はそっとルリさんの肩に触れた。
「…ごめん、ルリ。あの時、俺は不器用で、自分のことで精一杯だった。そして、君の夢も応援することしかできなかった。いや…君から見たら応援なんてしてる風には見えなかったのかもな。でも、ずっと、ずっと君の幸せを願っていて…鮎川ひろみのヘアメイク担当が君だと聞いて、とても嬉しかった…よく頑張ったな、ルリ。俺はとても誇らしいよ。俺に言われても腹が立つかもしれないけど」
「雄一」
 ルリさんは、そう言うと声をあげて泣いた。ルリさんは誰よりも兄貴に認められたかった。そのことが手に取るようにわかった。
 ルリさんはひとしきり泣いたが、時計の針が三時を指すと、ぴたりと涙を止めた。
「…ひろみさんの、メイクの支度しなきゃ」
 涙をハンカチでごしごしふいて、髪の毛を手櫛で整える。薄く化粧が崩れていても、ルリさんは美しかった。
 目に光をともして、俺たちに向って言った。
「仕事に入ります。雄一さん、今日はよろしくお願いします。敏樹君も、送ってくれてありがとう」
「うん。頑張ってください」
 俺はそう言って、応接室から出て行くルリさんを見守った。兄は、まだ何か言いたそうな顔をして、閉められたドアをいつまでも見ていた。

 鮎川ひろみのトークショーを見た後、俺はホテルで休んでいる春奈に電話した。しかし、春奈のスマホは電源が入っておらず、つながらなかった。なんだか嫌な予感がした。春奈は、昨日スマホを充電させていたから、電源が切れるはずない。故意に電源を切っている?
 普段の春奈ならそんな事、しない。春奈に何かあったのでは、という不安にかられ、パーティに出るのはやめて、広島駅近くのホテルに戻った。 
 果たして、春奈はいなかった。置手紙があり、探すなと書いてある。
 なんてことだ。
 様子がおかしかったが、まさかそんなに思い詰めていたなんて。

 俺は動転して、何から手をつければ春奈を見つけられるかわからなくなった。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
 ホテルの窓から見える外は、もう暗くなっている。
 春奈が無事かどうかすらわからないなんて。
 俺は春奈の書いた便箋が置かれたテーブルをドン、と殴った。

【 春奈ターン 】
...喉が乾いた。ふっと春奈はそう思い、部屋に備え付けられている冷蔵庫から、水のペットボトルを取り出し、飲んだ。
 当たり前だけど、さっき飲んだお抹茶の方が美味しかったな。
 春奈は、ゆっくり窓の外を眺めた。外は明るい夕方から暗くなろうとしていた。ここは、旅館くらしき。岡山県倉敷市にある老舗旅館だ。
 広島のホテルを出た後、春奈はどこへ行こうかと考えた。住んでいた祖母の家に行くことも考えたが、それではすぐに敏樹が、やって来るだろう。
 敏樹から距離を取りたかった。敏樹の胸の内にルリさんがいる、そう思うだけで、ぎゅうと胸を引き絞られる気がする。
 確かにルリは、敏樹に彼氏のフリをしてほしいなどと驚くような頼みをしてきた。だが、ルリが言うように、元彼の敏樹の兄、雄一に下に見られたくない、という気持ちは、分かる気がした。
 好きな人に、自分のみじめな姿を見られたくない。
 それは、春奈自身がそうだった。敏樹に、ルリへの嫉妬でいっぱいになっている自分を見られるのが我慢ならなかった。敏樹は春奈のことを放って置けないと思い、契約結婚に踏み込んでくれた。
 咳のせいで絵が描けなかった春奈を、可哀そうと思ったのだろう。始まりは同情。そんな敏樹との関係上、春奈がネガティブな気持ちに囚われているのを知ったら、敏樹の春奈への気持ちがみるみる減っていくような気がする。
 敏樹には絵を描く場所を与えてもらって、衣食住は申し分なかった。自分ができたことは、本当に朝食を作ることだけだった。
 甘えすぎていたな、と改めて思わずにいられない。
 自分一人で、しっかり立てるようになって、そうして相手を思い遣り慈しむ。それが全うな道のはずなのに、自分は敏樹によりかかっていただけだ。
 敏樹が何でもフォローしてくれていたから、あの藤原家での毎日は成り立っていた。
 それがわかった今、藤原家には、もう戻れない。

 敏樹に、もう逢えないと思うと、じわっと涙が滲む。もう一緒に暮らせないと分かっているのに、あの敏樹の顔をもう見れないということが、ひどく辛い。
 祖母の事に続き、大切な人をまた忘れなくてはいけない、という事はなんて力のいることだろう。
 だが、祖母の時のように、大事な人を抱えて生きていく術を、春奈は敏樹から教えられた。どんなに思い出してもいい。そうして、忘れたっていい。そう思えば、心の奥に、そっと祖母が立っていて、微笑んで春奈を見つめている気がする。
 敏樹の事も、いずれそんな風に心の中に住まわせる事がきっとできる。
 今はまだ敏樹の指や息遣いや、春奈を呼ぶ声が生々しく迫ってきて、とても振り払えない。でも、もう決めた。どんなに心の中を敏樹が占めていても、敏樹とはもう暮らさない。

 嫉妬で醜くなっていく私をじわじわ嫌いになっていく敏樹さんなんて見たくない。
 そんな風に嫉妬でおかしくなるくらい人を好きになるって事を…私は敏樹さんに教えてもらったんだわ…
 窓の外にじっと目を凝らす。
 静かに、茜色の空が宵闇に変っていこうとしていた。

 翌日。昨日の夜、旅館で出された夕食を、ほとんど食べることができなかった。布団に入ってからも、なかなか寝付けず、うとうとした頃、ゆっくりと夜が開けてきた。
 ぼんやりとした頭で、自分には何も残っていない、と思ったけれど、絵を描きたい気持ちだけは残っていた。