第8話
「えっ?」
「なんかさあ、明日の展覧会で、雄一と会うじゃない。その時にさあ、独り身で、あくせくやってるメイクアップアーティストです、って顔すんの嫌なのよね。こんな素敵な彼氏がいるから大丈夫ですって雄一に見せたいの」
「え、あの、でも、それは」
春奈は、酔っているわけでもないのに、頭がうまく回らなかった。唐突すぎる申し出にどう対応していいかわからない。
「もちろん、敏樹が嫌だって言ったらやらないわよ?」
にっこり、ルリが微笑んだ。それを聞いて、春奈は少し安心した。
さすがに面倒見のいい敏樹でも、実の兄の元婚約者を彼女です、というのは抵抗があるのではないだろうか。
ルリさん、そういう冗談はやめよう、とあっさり断る敏樹を想像した。
「どう、春奈ちゃん」
春奈には抗いようがなかった。だって体を重ねただけで、好きなのか、つきあってるのかわからない。それが契約結婚をしている敏樹と春奈の関係なのだ。
敏樹は渡せません、と強気で言うことができない。
「じゃ、じゃあ…敏樹さんが、いいって言ったら…」
「オッケイ。決まりね。じゃあ、もうちょっと飲もうかなあ」
ルリのはしゃいだ声が、バーに響く。
春奈は、敏樹が、彼氏のフリを断ってくれますように、と心の底で願った。
口にしたノンアルコールカクテルは、甘いはずなのに、苦い気がした。
まだ飲んでいく、というルリを残して、春奈はバーから自分の客室に帰った。
敏樹は、冷蔵庫にあるビールを飲んで寝てしまったらしい。春奈は、ベッドに横たわる敏樹に、シーツを掛けなおした。
自分も、化粧を落としてパジャマに着替えてベッドに入った。
怒涛の一日だったな…と。今日を振り返る。考えると悪い方向にばかり想いが飛んでいきそうで、ぎゅっと目をつぶり、眠るように仕向けた。
「え、俺がルリさんの彼氏のフリをする?」
後二時間もすれば、広島につく、というタイミングだった。ランチの後、カフェにお茶を飲みに来た春奈と敏樹は、コーヒーを飲んでいるルリと出会った。
そこで、昨日春奈に言ったように、ルリは平然と、自分の彼氏のフリをしてほしい、と敏樹に言ったのだ。
春奈は、ルリが酔いにまかせて言ったのかも、と思っていたが、本気だったのだ。春奈は、ルリを見つめる敏樹の顔を盗み見た。どうか、そんな冗談を、と断ってください。
ルリは、やはり昨日と同様に、自分がいかにこれまで苦労してメイクアップアーティストになったかを語り、雄一に下に見られたくないのだ、とはっきり言った。
すると、しばらく敏樹は考え込んだ。
「俺がルリさんの彼氏になったら、春奈はなんと説明したらいいんですか」
「私のアシスタントとでも。なんとでもなるわよ」
なんとでもならないでほしい、と春奈は胸の内で呟いた。
「…ふうん。まあ、他でもない、ルリさんの頼みですもんね」
え!と春奈は、声が出そうになるのを、必死でこらえた。
ちょ、ちょっと待って、敏樹さん、本気なの?!
声に出せない心の声が爆発しそうだ。
「やっぱり。敏樹は、わかってくれると思った。春奈ちゃんもそれでいいって言ってくれてるのよ。お二人に感謝だわ。ありがとね」
艶然と微笑まれてしまった。春奈は、顔をひきつらせていたと思う。
どうして、私の婚約者だから、ダメです、と言えなかったのか。今更ながら後悔する。
そんな嵐の中のような心持で、敏樹を見た。敏樹はルリを見ていた。
困ったな、とかそういう風でもなく、ルリを見ていた。
そうだ。ルリさんの白のワンピースを処分できなかった敏樹さんなんだ。
死んだ猫のことを、いっぱい思い出せばいいって励ましてくれたのはルリさんで。
敏樹さんにとって、ルリさんは、頼まれ事をされたら断れない、そんな人なんだ。
敏樹さんの中には、ルリさんへの想いが、ちゃんとある。
その確信が、ぐうっと胸の奥から迫ってきて、春奈は涙があふれそうになった。
今の後の段どりを決めている、敏樹とルリに気づかれないよう、春奈は、必死で涙を止めた。
豪華列車は、終着駅の広島駅に到着した。春奈は、敏樹と共に、荷物を持って予約していたホテルに移動した。ホテルに、荷物を置いたら、展覧会の会場に移動する。鮎川ひろみの絵を見て、夕方からあるトークショーを見て、展覧会の記念パーティに参加する、という流れだった。
敏樹は、いつもと変わらない態度で、春奈に接してくれる。荷物を持ってくれたり、時にはそのワンピースもいいね、などと言ってくれる。
だが、春奈は、敏樹の中にあるルリへの気持ちに気づいてしまった以上、どうしてもいつものようには振舞えない。
「春奈、どうした?気分でも悪い?」
ホテルの部屋のベッドに座り込み、うつむいている春奈に、敏樹は声をかけてくれた。
「は、はい…」
「疲れが出たかな。栄養ドリンクを買ってこよう」
部屋の外に行こうとする敏樹に、春奈は、声を大きくしていいです、と言った。
「春奈?」
敏樹が、春奈の顔を覗き込む。
春奈は顔を見られたくなかった。ルリへの嫉妬でいっぱいの自分の顔を。
「あの…私、パーティとか苦手で。ちょっとここで休んでおきたいっていうか…明日は、ちゃんと敏樹さんと行動しますから、私をここに置いていってください」
「え、そんな。一人にしておけないよ」
「いえ、あの、熱もあるみたいで…休みたいんです」
す、と敏樹は、春奈の額に手をやった。ひんやりと冷たい敏樹の手の感触。抱かれたときは、あんなに熱かったのに。
「そうか…熱があるんじゃいけないな。わかった。解熱剤を買ってくるよ。ちゃんと、休むんだぞ」
春奈は、こくん、と頷いた。敏樹は言ったとおりに、解熱剤を手に入れて来てくれ、飲み物やプリンといったスイーツまで用意してくれた。
「私を気にしないで行ってください…」
と、かたくなに繰り返す春奈に、敏樹はようやく頷いて、じゃあ、行ってくる、と腰をあげた。荷物の中から、兄雄一の、庭に埋められていた絵がはいったケースをとりだして
敏樹は部屋から出て行った。
その後ろ姿を見ながら、雄一の絵に励まされた事を言って御礼を言うつもりだったのに…と、いう気持ちがよぎった。
しばらく、春奈はベッドの上でじっとしていた。それから起き上がって、ホテルに備え付けられた便箋にペンで手紙を書いた。
『 今までありがとう。 探さないでください。
春奈 』
春奈は、ベッドサイドにその便箋を置いて、自分の荷物を手にした。
春奈は、知らなかった。自分の好きな人の中に、明らかに自分以外の誰かがいる。そのことを、受け入れられない、そんな厳格な自分がいることを。
ホテルのドアはあっけなくカタン、と閉まり、春奈は振り返らずに廊下を歩いて行った。
【 敏樹ターン 】
広島駅近くで借りたレンタカーで、雄一が主催する展覧会の会場へと移動する。俺はもちろん運転席だが、ルリさんは、後部座席にいた。
一緒に展覧会会場まで行くことは、織姫号に乗っている時に決めた。ルリは、タクシーで行く、と言ったが、会場は駅から少し距離があり、タクシー代も馬鹿にならない。
「えっ?」
「なんかさあ、明日の展覧会で、雄一と会うじゃない。その時にさあ、独り身で、あくせくやってるメイクアップアーティストです、って顔すんの嫌なのよね。こんな素敵な彼氏がいるから大丈夫ですって雄一に見せたいの」
「え、あの、でも、それは」
春奈は、酔っているわけでもないのに、頭がうまく回らなかった。唐突すぎる申し出にどう対応していいかわからない。
「もちろん、敏樹が嫌だって言ったらやらないわよ?」
にっこり、ルリが微笑んだ。それを聞いて、春奈は少し安心した。
さすがに面倒見のいい敏樹でも、実の兄の元婚約者を彼女です、というのは抵抗があるのではないだろうか。
ルリさん、そういう冗談はやめよう、とあっさり断る敏樹を想像した。
「どう、春奈ちゃん」
春奈には抗いようがなかった。だって体を重ねただけで、好きなのか、つきあってるのかわからない。それが契約結婚をしている敏樹と春奈の関係なのだ。
敏樹は渡せません、と強気で言うことができない。
「じゃ、じゃあ…敏樹さんが、いいって言ったら…」
「オッケイ。決まりね。じゃあ、もうちょっと飲もうかなあ」
ルリのはしゃいだ声が、バーに響く。
春奈は、敏樹が、彼氏のフリを断ってくれますように、と心の底で願った。
口にしたノンアルコールカクテルは、甘いはずなのに、苦い気がした。
まだ飲んでいく、というルリを残して、春奈はバーから自分の客室に帰った。
敏樹は、冷蔵庫にあるビールを飲んで寝てしまったらしい。春奈は、ベッドに横たわる敏樹に、シーツを掛けなおした。
自分も、化粧を落としてパジャマに着替えてベッドに入った。
怒涛の一日だったな…と。今日を振り返る。考えると悪い方向にばかり想いが飛んでいきそうで、ぎゅっと目をつぶり、眠るように仕向けた。
「え、俺がルリさんの彼氏のフリをする?」
後二時間もすれば、広島につく、というタイミングだった。ランチの後、カフェにお茶を飲みに来た春奈と敏樹は、コーヒーを飲んでいるルリと出会った。
そこで、昨日春奈に言ったように、ルリは平然と、自分の彼氏のフリをしてほしい、と敏樹に言ったのだ。
春奈は、ルリが酔いにまかせて言ったのかも、と思っていたが、本気だったのだ。春奈は、ルリを見つめる敏樹の顔を盗み見た。どうか、そんな冗談を、と断ってください。
ルリは、やはり昨日と同様に、自分がいかにこれまで苦労してメイクアップアーティストになったかを語り、雄一に下に見られたくないのだ、とはっきり言った。
すると、しばらく敏樹は考え込んだ。
「俺がルリさんの彼氏になったら、春奈はなんと説明したらいいんですか」
「私のアシスタントとでも。なんとでもなるわよ」
なんとでもならないでほしい、と春奈は胸の内で呟いた。
「…ふうん。まあ、他でもない、ルリさんの頼みですもんね」
え!と春奈は、声が出そうになるのを、必死でこらえた。
ちょ、ちょっと待って、敏樹さん、本気なの?!
声に出せない心の声が爆発しそうだ。
「やっぱり。敏樹は、わかってくれると思った。春奈ちゃんもそれでいいって言ってくれてるのよ。お二人に感謝だわ。ありがとね」
艶然と微笑まれてしまった。春奈は、顔をひきつらせていたと思う。
どうして、私の婚約者だから、ダメです、と言えなかったのか。今更ながら後悔する。
そんな嵐の中のような心持で、敏樹を見た。敏樹はルリを見ていた。
困ったな、とかそういう風でもなく、ルリを見ていた。
そうだ。ルリさんの白のワンピースを処分できなかった敏樹さんなんだ。
死んだ猫のことを、いっぱい思い出せばいいって励ましてくれたのはルリさんで。
敏樹さんにとって、ルリさんは、頼まれ事をされたら断れない、そんな人なんだ。
敏樹さんの中には、ルリさんへの想いが、ちゃんとある。
その確信が、ぐうっと胸の奥から迫ってきて、春奈は涙があふれそうになった。
今の後の段どりを決めている、敏樹とルリに気づかれないよう、春奈は、必死で涙を止めた。
豪華列車は、終着駅の広島駅に到着した。春奈は、敏樹と共に、荷物を持って予約していたホテルに移動した。ホテルに、荷物を置いたら、展覧会の会場に移動する。鮎川ひろみの絵を見て、夕方からあるトークショーを見て、展覧会の記念パーティに参加する、という流れだった。
敏樹は、いつもと変わらない態度で、春奈に接してくれる。荷物を持ってくれたり、時にはそのワンピースもいいね、などと言ってくれる。
だが、春奈は、敏樹の中にあるルリへの気持ちに気づいてしまった以上、どうしてもいつものようには振舞えない。
「春奈、どうした?気分でも悪い?」
ホテルの部屋のベッドに座り込み、うつむいている春奈に、敏樹は声をかけてくれた。
「は、はい…」
「疲れが出たかな。栄養ドリンクを買ってこよう」
部屋の外に行こうとする敏樹に、春奈は、声を大きくしていいです、と言った。
「春奈?」
敏樹が、春奈の顔を覗き込む。
春奈は顔を見られたくなかった。ルリへの嫉妬でいっぱいの自分の顔を。
「あの…私、パーティとか苦手で。ちょっとここで休んでおきたいっていうか…明日は、ちゃんと敏樹さんと行動しますから、私をここに置いていってください」
「え、そんな。一人にしておけないよ」
「いえ、あの、熱もあるみたいで…休みたいんです」
す、と敏樹は、春奈の額に手をやった。ひんやりと冷たい敏樹の手の感触。抱かれたときは、あんなに熱かったのに。
「そうか…熱があるんじゃいけないな。わかった。解熱剤を買ってくるよ。ちゃんと、休むんだぞ」
春奈は、こくん、と頷いた。敏樹は言ったとおりに、解熱剤を手に入れて来てくれ、飲み物やプリンといったスイーツまで用意してくれた。
「私を気にしないで行ってください…」
と、かたくなに繰り返す春奈に、敏樹はようやく頷いて、じゃあ、行ってくる、と腰をあげた。荷物の中から、兄雄一の、庭に埋められていた絵がはいったケースをとりだして
敏樹は部屋から出て行った。
その後ろ姿を見ながら、雄一の絵に励まされた事を言って御礼を言うつもりだったのに…と、いう気持ちがよぎった。
しばらく、春奈はベッドの上でじっとしていた。それから起き上がって、ホテルに備え付けられた便箋にペンで手紙を書いた。
『 今までありがとう。 探さないでください。
春奈 』
春奈は、ベッドサイドにその便箋を置いて、自分の荷物を手にした。
春奈は、知らなかった。自分の好きな人の中に、明らかに自分以外の誰かがいる。そのことを、受け入れられない、そんな厳格な自分がいることを。
ホテルのドアはあっけなくカタン、と閉まり、春奈は振り返らずに廊下を歩いて行った。
【 敏樹ターン 】
広島駅近くで借りたレンタカーで、雄一が主催する展覧会の会場へと移動する。俺はもちろん運転席だが、ルリさんは、後部座席にいた。
一緒に展覧会会場まで行くことは、織姫号に乗っている時に決めた。ルリは、タクシーで行く、と言ったが、会場は駅から少し距離があり、タクシー代も馬鹿にならない。



