御曹司の甘いささやきと、わたし

「ああ…その鮎川ひろみのトークショー、明日、見るつもりだったんだ」
 えっ、と春奈が敏樹を見つめる。そんな予定、あっただろうか。明日は、敏樹の兄の展覧会に行くはずでは。
「言ってなかったか?明日の展覧会は、女優の鮎川ひろみが描いた作品が中心のものなんだ。それで、トークショーとパーティが明日の午後あって。そこに行く段取りになってたんだ」
 春奈が、昨日、ルリから鮎川ひろみの名を聞いた時、聞き覚えがあったのを思い出した。敏樹の兄が主催する展覧会の主役だったのだ。
 そうだったのか、と一旦納得したが、目の前では、ルリと敏樹がお互いのこれまでのことを語り合っている。空白の数年を埋めようとしてるのだから、おしゃべりも盛り上がるだろう。
 春奈は理性で。そう理解したけれど、本心は、不安でいっぱいだった。
 ルリのことは、実際に会う前から魅力的な人だろう、と思っていた。そして、髪の毛の色は変ってしまったが、実際に会ったルリは、まさしく素敵な人だった。快活で明るく、話に説得力がある。彼女にお願いされたらきいてしまいそうな、まぶしいオーラを持つ人。
外見だけでなく、中身もしっかりとした、大人の女性だ。
 敏樹が彼女に惹かれても無理はないだろう。
 春奈は、せっかく綺麗にしてもらったのに、自分が、今、絵具まみれのスゥエット姿のような気がしてきた。どんなに着飾っても、本当の自分というのが滲んでしまう。
 春奈は、話に花を咲かせている二人を遠く見つめた。

 列車の上での夜も、二回目となった。昨日の夕食は、和の懐石料理だったが、今日はフレンチのコースだった。
 ルリの出現で、すっかり気落ちした春奈だったが、美味しい食事と、敏樹が化粧をした春奈を褒めてくれたので、少し浮上した。
 食後はウノでもしよう、と敏樹と話していたら、敏樹のスマホに通知があった。
「あ、ルリさんからだ。春奈にだよ。バーで飲んでるから来ないかって。ガールズトークの続きをしましょうって書いてある」
 いつの間に、ルリと敏樹は連絡先のやりとりをしたんだろう。もうそれだけで、気持ちがざわっとする。
 しかし、ルリと敏樹の再会の盛り上がりのせいで、春奈は、ルリにメイクの御礼をちゃんと言えていなかった。綺麗にしてもらったのは、やっぱり嬉しかった。プロにタダでやってもらったのだ。御礼はきちんとするべきだろう。
「じゃ、私、ちょっと行ってきてもいいですか?」
「ああ。楽しんでおいで。俺は、シャワーを浴びておくよ」
 春奈は頷き、バッグを片手に、バーへ向った。
「春奈ちゃん、こっち、こっち」
 バーカウンターの真ん中に、ルリはいた。今日会った時とは違う紫色のタイトなドレスを着ていた。ピンクの髪によく似合っている。春奈自身は、今朝会った時と同じ、水色のふんわりしたワンピースだった。せっかく敏樹にたくさんよそ行きの服を買ってもらったのに、活かせていない自分が恥ずかしくなった。どうして、もっと大人っぽい装いを用意してこなかったんだろう。自分がとても幼く感じた。
「春奈ちゃん、どう敏樹、メイク可愛いって言ってくれた?」
 ルリが笑みを浮かべて言う。青みがかったピンクの口紅がつややかに光る。
「は、はい...。」
 言い淀む春奈に、ふうん、とルリが言った。何か含みのあるふうん、だった。飲める?と聞かれたので、ノンアルコールのカクテルを、と言ったら、さらに、へえ。と声のトーンを下げた。
 ルリには悪いが、春奈は何故か値踏みされているような気がした。
 敏樹に、春奈は似合わない。そう言外に言われているような。
「ねえ、ズバッときいちゃうけど、敏樹から一緒に暮らそうって言われなかった?」
「え?ええ…そうです」
 あー、とルリは何度も頷いた。
「そうなのよね。敏樹ってそういうとこ、あるのよ。私が藤原家に出入りしていた時も、家出少女を家にあげたりしてさ。ご両親を困らせてたなあ」
 どきり、とする。それは、まさに以前、春奈が考えていた事だった。敏樹の性格を考えたら、世話好きなので、春奈のこともほっとけなくなったのじゃないか。
 料理や自転車を教えてくれて。さらに、春奈の咳と仕事の事を知り、知らん顔できなくなった。そう考える方が、自然なのに。
 最近の、甘い戯れから、つい、その局面を見るのをおろそかにしていた。
 そうなんだ…私、だから…自信が持てないんだ。敏樹さんと一緒にいることに。
 そして、ルリさんと一緒にいる敏樹さんを見ていると、ない自信がさらになくなるんだ…。
 敏樹といて、いいことばかり続いていた春奈に、ぐっとその分、振り子でつらい事がやってくるような予感がした。
「ねえ、知ってる?」
 不意に、ルリが手に持つグラスの氷をからん、と鳴らして春奈に問いかけた。
「雄一のことよ」
 敏樹の兄、雄一のことだ。昨日、敏樹からさんざん兄との思い出話を聞かされたところだ。敏樹は気さくで快活だが、雄一はどちらかと言えば物静かで、絵を描いたり読書をすることが好きだったそうだ。
「はい。聞いてます」
「ふうん。敏樹によるとさあ、雄一、シカゴに奥さんと子どもがいるんだって」
 そういえば、そんなことも言っていたような。
「はあ」
「なんか、むかつくよね」
「え?」
 ルリの目元が、赤い。ひょっとして、だいぶ前からお酒を飲んでいたんだろうか。
「画廊やりますって言ってさあ、ちゃっかり親にも援助してもらってるじゃない。金持ちのボンボンは、そこが違うのよね。潤沢な資金があるから失敗も少ないわけ。普通、素人が画廊なんてやったら火傷するだけよ。いいわよね、趣味の延長でやれて」
 え、と春奈は言葉に詰まった。確かに、春奈も絵でお金を稼いでいるので、絵で商業的に成功することが難しいことも知識としては知っている。
 しかし、それをどうこうと敏樹の兄、雄一と結びつけて考えたことがなかった。
「私なんかさあ、必死で、もう食らいつくようにして、修行して、やっとプロになれたわけ。それが何、画廊も成功して、シカゴ暮らしとか。ほんと、むかつくわあ」
 聞いていて、春奈は悲しくなった。素敵なルリが、すさんだ言葉で汚れていく。敏樹のことでもやもやしていたのに、それとは別にいたたまれない気持ちになった。
 なんて相槌を打とうかと考えていると、ルリが言った。
「ねえ、春奈ちゃんさあ」
「は、はい」
「ちょっとお願いがあるんだけどお」
 私に何かできることがあれば、と春奈は身構えた。
「敏樹、ちょっと貸してくれない」