御曹司の甘いささやきと、わたし

 筋がいい、と褒められて嬉しかった。実際、料理はやってみて楽しかったのだ。子供の頃にやった工作の延長みたいだった。今までミネさんに頼りっぱなしだったのはよくなかった。今度、何か作って、ミネさんを驚かせよう。
「藤原さんは、最初からこんなにお料理上手だったんですか」
 食べ終えた二人分の食器を流しに持っていきながら、春奈はきいた。
「いや。最初はひどいもんだった。学生の頃、一人暮らししてたんだが、まったく家事をやったことがなかったから、大変だった。野菜炒めを何度作っても材料がフライパンにこびりついてな。呪われてるのかな、と友達に愚痴ったら、『お前、油ひいてる?』って言われて油の必要性を知ったんだ」
「そうだったんですね。油を…」
 はああ、と感心しながらきいていたら、藤原が怪訝な顔をした。
「まさか、君も知らなかったのか。普通は学校で調理実習とか、あるだろう?」
「あったような…記憶が曖昧です」
 ぷはっ、と藤原は吹き出した。
「そうか、君は昔の俺と一緒だったんだな。どうりで、ほっとけないわけだ」
 春奈は、自分のことで笑われているのに、全然嫌じゃなかった。少しだけ、藤原との心の距離感が縮んだような、嬉しさがあった。
 人の中に入っていくのが苦手で、それを言い訳に、随分長い間、ミネさんと隣の晃くらいにしか心を許したことがなかった。
 藤原は、急に料理を教えようとしたり、強引な面があるが、ちっとも上から目線というものを感じない。根っから気さくなのだ。ざっくばらんな態度で春奈にここにいていいよ、という信号を出し続けているような、そんな居心地のよさがあった。
 藤原は、昨日はシャツにスラックス姿だったが、今日は長袖Tシャツにデニムというラフな格好だ。休暇中と言っていたが、どういう仕事をしているのだろう。
 今、こうして一緒に過ごしているリビングはとても広い。マンションではなく一軒家だと思う。そういえば、と春奈は、はっとした。自分はここが何町かも知らないのだ。
「藤原さん、あの、ここってどこですか?」
 皿を洗いながら、春奈はきいた。
 藤原は、食後のコーヒーを淹れてくれているところだった。
「ああ、K町だ。言ってなかったな」
 春奈の家から三駅ほどのところだった。そうだったのか、と納得し、もう一つ疑問が生まれた。
「昨日は、なんでバスに乗ろうとしたんですか?」
 時刻表と随分にらめっこしていた。バスに乗り慣れている人の様子ではなかった。
「近くまで、用事があってな。そういや、バスなんてほとんど乗ったことがない、と気づいたんだ。西橋美術館にも行きたかったし。普段はずっと車で移動するからな。物珍しくて乗ろうとしたら、君に声をかけられた」
「そういう初めて感が出てました」
「言ったな。君こそ、お嬢様なのにバスを使うんだな」
「ええ。バス好きなんです。バスって時間通りに来ないこともあるから、カンを働かせて今だ、って予想して行くと、すぐ乗りたいバスが来たりして。今日もバス運がよかった、って嬉しくなるんです」
「バス運ね、なるほどな。俺は短い距離だと自転車も使うが…君は距離が短くてもバス?」
「はい…自転車に乗れなくて」
 かあっと頬を赤らめて春奈は言った。恥ずかしい。バスが好きなのも本当なのだが、バスの利用頻度が高いのは、自転車に乗れないからだ。
「お嬢様だからな。お抱え運転手でもいたか」
「いえ、そんな大富豪とかでもないですし。自転車に乗る練習をずっとしていたら…とにかく転びまくって、誰も練習につきあってくれなくなったんです」
「ふうん」
「その内、バスに乗ることを覚えて。ああ、私にはバスがある。これからずっとこれで行こうって決めたんです。小6の時でした」
「大層な決心だ。そんな話を聞いたら、自転車の乗り方も教えたくなるな」
「えっ」
 春奈は、どきっとした。料理を教えてもらって、今日はもうそれでさよなら。それが惜しい気持ちが芽生えていた。もうちょっとこうやって藤原とおしゃべりをしていたい。もし、本当に別の日に自転車の乗り方を教えてもらえるのなら。
 
 連絡先…教えてもらえるだろうか?

 男性に対して、こんな気持ちを持ったのは初めてだった。ほんの少し話をしただけなのに、藤原のことが知りたくてたまらない。矢継ぎ早に、いろいろ質問したい衝動を実は抑えている。
 藤原の淹れてくれたコーヒーも美味しかった。
 気が付くと時計の針は、午前11時を指していた。
「そういえば、俺は休暇中だが、君は?学生さんなのかな」
「いえ。大学は通信制で卒業しました」
「通信制?」
「はい。祖母は、私が高校三年の時に病気で寝たきりになってしまって。ミネさんと二人で看病したくて、通信制にしたんです。家事はミネさんがやってくれるので、私は祖母についていて、トイレに行く手助けをしたり、横で本を読んであげたりしていました」
「そうか…おばあさまも、嬉しかっただろうな。孫に傍にいてもらえて」
「祖母には、育ててもらった恩義があるので、お返しがしたかったんです」
「なるほどな。でも君はご両親が亡くなっていただろう。経済的にはどう」
 藤原がそこまで言ったところで、スマホの着信音が鳴った。
「ああ、俺だ。…うん?いや、それはそっちで…そうか。わかった。行くよ。休暇はたっぷりもらったしな。では、後で」
 そう言って、藤原は電話を切った。
「すまない。春奈さん、急用ができた。休みのはずだったが、会社に行くことになった」
「いえ、私こそ、長居してしまって。いろいろありがとうございました」
 春奈は、ぺこりと頭を下げた。
「その恰好じゃ、帰せないな。ちょっと待っててくれ」
 しばらくして、藤原は、服を手にして戻ってきた。
「これがあった。着て帰るといい」
 春奈は、手渡された服を広げてみた。白のシンプルなワンピースだった。昨日、眠らせてもらった部屋へ行って、ジャージからワンピースに着替える。
 鏡にうつった自分に違和感を覚える。普段、春奈が選ばないレースをあしらったテイストだからなのか。それよりも、藤原が誰か女性の服を持ってきたことに少しショックを覚えていた。
 藤原に妹や姉がいて、その人のワンピースでもおかしくない。そう思っているのに、なぜか藤原のそばにいる女性をイメージしてしまう。
 藤原さん、つきあっている人がいるんですか。
 その人の服なんですか。
 もしそうじゃなかったら、私に連絡先を教えてください。
 
 胸の内に、一気に藤原に言いたい事が生まれた。思った通りに言ったら、どうみても告白の台詞だ。いきなりすぎる。
 どうかしてる。私、どうかしてる。

 コンコン、とドアをノックする音がした。はい、と答えると、藤原がドアを開けた。
「用意できたか。…あ」
 春奈の姿を見て、藤原が一瞬、固まった。
 あ?
 何だろう、と春奈は顔をあげた。
「いや…なんでもない。君を車で送るよ」
「でも、藤原さんお仕事があるのでしょう」
「昨日のバス停の近くなんだろう。それくらいなら大丈夫だ。用意できたんなら、行こう」
 玄関から出て、ふり返ると、やはりというか、予想以上の大邸宅だった。