御曹司の甘いささやきと、わたし

第7話

 春奈は、久しぶりに祖母の実家に帰っていた。田代の肖像画ができたので、晃に会う必要があった。春奈は、晃を自分の家の居間に誘った。
「なんだよ、やればできるじゃん」
 出したお茶にも手をつけずに、晃は春奈の描いた肖像画に見入っている。
「色見も田代のおっさんの表情も…うん、抜けはないな。これなら、引き渡せる」
 晃のチェックは厳しく、これじゃダメだ、と突き返されることも以前はあった。今回は合格のようだ。久しぶりだったので、春奈は、ほっと息をついた。
 晃は、春奈に肖像画を描いてほしいと言ってメールを送ってくる客との連絡係をやってくれている。肖像画の代金も、晃がやたらに吊り上げようとしたので、キャンバスの号数でこのくらい、と料金設定を二人で作った。
 絵を依頼主に手渡したり、送ったりという作業も、もちろん晃がやってくれる。そのかわりしっかり手間賃は肖像画代からとっていく。ミネさんに話すと、晃君が取りすぎじゃないですか、と言っていたが、自分が絵を描くことに集中できるのはありがたく、晃に任せていた。
 隅から隅まで絵をチェックすると、晃は、やっと絵をテーブルに置き、お茶を飲んだ。
「それで、どうなんだよ」
「何が」
「おっさんと暮らしてるんだろ。あの藤原サイクルの社長」
 きっとミネさんから聞いたに違いない。
「うん。楽しくやってる。朝ごはんを造ったら、後は好きなだけ描かせてくれるんだ」
「そうか。せっかく絵が描けるようになったんだから、うっかり妊娠なんかすんなよ」
 ぼ、と春奈の顔が赤くなる。
「そ、そんなこと、してないっ!」
 晃のデリカシーの無さはよく知っいるが、こんな事まで言うなんて。
「ふーん。まあ、あのおっさんも慎重そうだったからな。大人の対応してるってか」
 晃が、ふん、とお茶をすする。
 その様を見て、春奈は言った。
「晃、いろいろありがとう。絵のこと、晃が藤原さんに言ってくれたんでしょ」
「あ、ああ…まあな。お前が働かねえと、俺の取り分も発生しねえしな」
 こんな風に金の亡者を気取るけれど、春奈の心配をいつもしてくれていることを、春奈は知っている。
「晃、ちゃんと食べてる?仕事、忙しいんじゃない」
「何だよ、俺の心配なんかするなよ。お前は、絵を描きゃあいいんだよ。次がもう待ってんぞ」
「うん」
 春奈は、胸の内で、もう一度、ありがとう、と言った。

「わあー…すごい。すごいだろうな、って思ってたけど、想像以上です」
 春奈は、通された客室を見て、言った。アールデコ調の椅子や小さなテーブル。美しい刺繍の施されたクッション。深い紺色で、クリーム色の模様の入ったふかふかのカーペット。
 今、春奈と藤原は、東京から広島までを結ぶ、超豪華寝台列車織姫に乗っている。
 織姫は、七月七日の七夕を中心に、初夏の爽やかな季節に客を乗せて走る。豪華なのは客室だけでないらしいのだが、少しずつ満喫しようと春奈は思った。
 今は、スプリングのきいた客室のソファに座るだけでも心が弾む。旅行なんて修学旅行以来だ。車窓の外には、もちろん、美しい景色が流れている。
「気に入ったみたいだな」
 と、藤原が嬉しそうに目を細めて言う。この豪華列車の旅を思いついたのは、藤原だった。東京から、藤原の兄のいる広島まで、絵を届けに行く。春奈は当然、普通に列車の旅となると思っていたのだが、藤原がいろいろ手を尽くして、この織姫号のチケットを取ってくれた。織姫号について春奈がスマホで調べると、とんでもない金額の豪華列車だった。そんな贅沢していいんですか?!と、思わず言ってしまったのだが、藤原は笑って、
「何言ってるんだ。俺は稼いでるし、これは春奈さんの慰労の旅でもあるんだから、これくらいなんてことないよ」
 と、言われてしまった。
 確かに、藤原は日曜日も忙しく、一週間、休みらしい休みがない。やっと取れた三日の休みを豪快に過ごしてもいいだろう。しかし、春奈はこれまで、絵を描き上げたからと言って、大して打ち上げらしいこともしたことがない。絵が依頼主の手に渡り、晃から代金をもらい、祖母の好きな和菓子や果物を買う、それをミネさんと三人で食べる、そんなささやかな事で満足していた。
 織姫での旅は、春奈からしたら身分不相応な気がするのだが、藤原とも、しっかり過ごせるのだし、思い切り楽しもう、そう思いなおし、今に至る。
「藤原さ…」
 しばらく車窓からの眺めを楽しんで、隣に座る藤原に声をかけようとした。
 藤原は、ソファに頭をあずけて、眠っていた。
 三日の休みを取るために、ここ数日、帰ってくるのは、深夜だった。きっと寝不足なのだろう、寝かせてあげなきゃ…。
 春奈は、そっとショルダーバッグを手にして、客室を出た。ちょっと探検してみよう、楽しそう。
 列車の壁の模様や、飾り窓の縁取り、車両ごとに飾られた絵…そんなものを見るだけで楽しく、美術館にいるつもりで、ひとつひとつゆっくり見ていった。
 やがて、車内アナウンスが流れた。
「次は、N川内に停車します。お土産をご準備しておりますので、お楽しみください」
 お土産だ、と春奈は目を輝かせた。織姫は、要所要所で、駅に立ち寄り、そこの土地の名産のお菓子などを、列車から降りて買えることになっている。
 春奈は、いそいそと列車から降りた。ホームの向こうに、小さな駅の待合室が見える。
ホームには、小さな台が出ていて、そこに美味しそうな和菓子が並んでいた。N川内で有名な菓子店、「もりや」のものらしい。
 同じ織姫の乗客であろう人たちもさわさわと寄ってくる。いろんな和菓子が並んでいて、春奈は目移りしたが、大好きな桜餅を買うことにした。藤原の好きな豆大福も買ってみる。
 買い終えて、藤原が喜ぶ顔を想像して、ほっこりしていると、あっ、という小さな叫び声が聞こえた。
 声の方に振り返ると、一人の三十歳くらいの女性がいた。
 春奈は、ぱちっと目が覚める思いをした。
 その女性が、ベリーショートで鮮やかなピンク色の髪の毛だったのだ。顔立ちも美しく、なんだか妖精みたい、と感じ入った。
 女性は、持っていたバックをごそごそやっている。
「お財布忘れちゃった…」
 困り果てた顔をして、呟く。きっと客室にお財布を忘れたのだろう。列車から降りられる時間は十五分と決まっていて、もうあと三分くらいしかない。客室に戻る時間はないだろう。春奈は、思い切って声をかけた。
「あの、よかったら立て替えましょうか?一緒の列車なので、返すのは後でいいですから」
 女性は、春奈を見て、驚いた顔をして、言った。
「いいんですか?」
「はい。あ、もう買われた方がいいですよ。時間が」
「あ、ありがとう」
 女性は、和菓子を選び、春奈が支払った。
 列車がまもなく出発するアナウンスが流れ、二人で慌てて乗車する。
「本当に、ありがとう。どこでお金を返したらいいかしら」
 長いまつ毛で縁どられた目がとても綺麗だった。見とれてしまうくらい美人だなあ、と春奈は思わず女性を見つめてしまった。
 さっき列車を探検した時のことを春奈は思い出した。
「カフェの車両がありますよね。そこに三時に行きます。そこでどうでしょう」