あ、朝だ。春奈は、アトリエの隅で丸くなって眠っていた。三時頃まで絵に集中していて、今日はここまで、というラインにたどり着いた。足元から崩れるようにして床に座り込んだところまで覚えている。そのままうたたねしてしまったらしい。
アトリエの壁にかかった時計を見ると、五時だった。
よかった、藤原さんの朝食を作る時間がある。指先や、いろんなところが絵具にまみれている。さっとシャワーを浴びよう、と思う。
アトリエを出て、浴室でシャワーを浴びる。バスローブを着て、髪の毛を乾かし終えると、がらっと脱衣所のドアが開いた。
「きゃっ」
小さく声をあげると、藤原がいた。
「ああ、ごめん」
今、起きていたのだろうパジャマ姿だ。紺色に白いパイプラインの入ったシンプルなもので、よく似合っている。
「ひょっとして、朝方まで描いてた?」
「はい。集中して描けました」
「いい顔してるな」
ふわっ、と藤原の手が春奈の頬に触れた。その感触を心地よく思っていると、藤原に唇を捉えられていた。重なった唇が熱い。なんどか唇で甘く噛まれた後、そっと藤原の舌が春奈の口の中に入ってきた。舌が舌に触れて、春奈は、自分がびくん、と跳ねあがるのを感じた。腰の辺りに熱を感じる。
やだ、こんなの初めてっ…
思わず逃げ腰になるが、いつのまにか洗面所の台に春奈の手は藤原の手によって縫い付けられていて、身動きができない。藤原の熱い舌と唇を無抵抗で感じるしかなかった。
しかも、それを悦んでいる自分も確かにいて、そんな知らない自分の出現に恥ずかしさでいっぱいになる。
もう、立っていられないかも…と思ったところで、やっとキスは終わった。
「こんなキラキラしてる春奈さんを見たら、襲わないではいられないよ」
キスの衝撃が激しすぎて、甘い余韻に包まれた春奈は、うまく返事もできなかった。とろんとした目で藤原を見つめる。
「そんな顔してると、もっと襲うけど?」
春奈は、やっと正気に戻った。ドライヤーの電源を切り、慌てて脱衣所を出る。
バスローブから部屋着に着替えながら、気持ちをしゃんとさせないと、ふらつきそうだと思った。
キ、キスってすごいんだ…。
改めて知って呆然とする。朝食、朝食、と自分に言い聞かせて、キスの余韻をふりはらって、台所に立つ。今日は、和風にしよう、とおにぎりを握る。
いつものように新聞を読んでいる藤原に「できました」と伝えて、一緒に朝食をとる。ほぼ徹夜だったので、春奈はお腹がぺこぺこだった。自分で作ったおにぎりが、我ながらすごく美味しい。
ようやく平常運転に戻った春奈は、美味いな、と言いながらおにぎりを食べる藤原に、ききたかったことを尋ねた。
「あの、昨日、埋められていた絵は、誰が描いたものか、藤原さん、ご存じですか?」
藤原は、お茶をすすり、湯呑を置いてから、言った。
「あれは、兄貴が描いた絵だよ。あのアトリエを使っていた頃に描いた絵だ。兄貴自身も、気に入っていた絵だった」
「そうでしたか、お兄さんが…素晴らしい描き手ですね。やみくもに引き込まれました。そのおかで、私以前のカンを取り戻すことができたんです」
「それはよかった。確か、俺もよく描けてると褒めたことがあったよ」
「でも…それが何で、埋められてたんでしょう」
「そこなんだ。あの絵が無くなって兄貴も随分、探していたよ。海外に行く直前だったから、仕方なく無くなったまま渡米したんだ」
「そうだったんですね…じゃあ、誰が一体そんなことを」
「真相は闇の中だ。タイムカプセルの近くだったからラッキーだったな。あれがなかったら、掘り返すことはなかっただろう」
春奈は頷き、思い切って、次の質問をした。
「それで…あの、描かれていた女性っていうのは」
「ああ、昨日話したルリさんだよ。恋人の存在ってのはすごいな。兄貴の絵の腕をひきあげる力があったんだろうな。あれは会心の作だ」
春奈は、ぎゅっと唇を結んだ。
やっぱり、ルリさんだったんだ。
確かに、あの絵の女性なら、藤原が貸してくれた白いワンピースを難なく着れそうだ。それどころか、きっと着ることで、服をそれ以上の価値にしてしまうような。とんでもなく魅力的な人に違いない。
藤原さんは、ルリさんのことをどう思っていたんだろう…。
きいてしまったら後悔しそうで、春奈はその言葉を心の奥にしまった。
藤原の兄とルリの事情を聞いて、春奈は確かに複雑な気持ちになった。しかし、それは春奈の「絵を描きたい」スイッチを脅かすことはなかった。
素晴らしい絵は、どう見ても、やはり素晴らしい。
いい作品を観て、わきあがってきたもの。それを生かすのは、春奈自身だ。春奈は、胸の内に熱くともる炎が消えない内に、とアトリエにこもった。
毎朝の朝食だけは、しっかり藤原に作り、一緒に食べた。それからはひたすらアトリエにこもり、田代の肖像画にチャレンジした。
数日後。
「で、できた…」
肖像画を描き始めたころと同じ熱量で、田代の肖像画を描き上げることができた。絵の中の田代は、少し頑固そうで、しかしユーモアも忘れないような印象的な男性に仕上がっている。
「気に入ってもらえるといいけど…」
アトリエの壁にある時計は午後17時を指していた。
昨日もほとんど徹夜してしまった。朝方、藤原にサラダとサンドイッチを作り、テーブルに置いておいたのを思い出した。アトリエを出てリビングに行くと、サンドイッチは消えていた。
藤原が食べてくれたのだ、とほっとする。そのままバスルームへ行き、熱いシャワーを浴びた。髪の毛を乾かし、自分の部屋のベッドに倒れこむと、あっという間に眠ってしまった。
目が覚めると22時だった。
朝から何も食べていないのを思い出し、着替えて部屋を出ると、キッチンでリゾットを作った。
卵の入った優しい味に、身体がくつろいでいく。
頭はぼんやりしていたが、肖像画を描き上げた達成感で、胸の内はじんわりと温かかった。
喉が乾いてペットボトルの水を飲んでいると、玄関で音がした。
藤原だ、といそいそと出迎える。
「おかえりなさい」
「ああ、この時間のお迎えは久しぶりだな」
「ごめんなさい。すっかり甘えてしまって。お風呂入られますよね。ビールとおつまみを用意しますね」
「大丈夫か。ゆっくりしてていいんだぞ」
「はい、夕方から寝ていたので、何かしたい気分です」
藤原は、嬉しそうに目を細めて、じゃあ、そうしてもらおうかな、と言った。
おつまみが出来て、テーブルに運んでいると、藤原が浴室からやって来た。Tシャツとジャージ姿だ。風呂上がりのほんのり上気した頬の藤原が何だか可愛かった。
「春奈さんの分も、グラスを持ってきて」
え、と春奈は躊躇した。お酒は弱いので、一緒に飲むことはこれまでなかった。
藤原は二つのグラスを受け取ると、缶ビールを少しだけ注ぎ、春奈に差し出す。受け取ると、藤原が自分のグラスとかちん、と合わせた。
「乾杯。春奈さんがここにいる、ということは、絵が仕上がった。そうだろう」
春奈は、こくりと頷いた。この人には何でもお見通しだ、と思う。
「はい。何とか完成しました。今、すごく満たされています」
アトリエの壁にかかった時計を見ると、五時だった。
よかった、藤原さんの朝食を作る時間がある。指先や、いろんなところが絵具にまみれている。さっとシャワーを浴びよう、と思う。
アトリエを出て、浴室でシャワーを浴びる。バスローブを着て、髪の毛を乾かし終えると、がらっと脱衣所のドアが開いた。
「きゃっ」
小さく声をあげると、藤原がいた。
「ああ、ごめん」
今、起きていたのだろうパジャマ姿だ。紺色に白いパイプラインの入ったシンプルなもので、よく似合っている。
「ひょっとして、朝方まで描いてた?」
「はい。集中して描けました」
「いい顔してるな」
ふわっ、と藤原の手が春奈の頬に触れた。その感触を心地よく思っていると、藤原に唇を捉えられていた。重なった唇が熱い。なんどか唇で甘く噛まれた後、そっと藤原の舌が春奈の口の中に入ってきた。舌が舌に触れて、春奈は、自分がびくん、と跳ねあがるのを感じた。腰の辺りに熱を感じる。
やだ、こんなの初めてっ…
思わず逃げ腰になるが、いつのまにか洗面所の台に春奈の手は藤原の手によって縫い付けられていて、身動きができない。藤原の熱い舌と唇を無抵抗で感じるしかなかった。
しかも、それを悦んでいる自分も確かにいて、そんな知らない自分の出現に恥ずかしさでいっぱいになる。
もう、立っていられないかも…と思ったところで、やっとキスは終わった。
「こんなキラキラしてる春奈さんを見たら、襲わないではいられないよ」
キスの衝撃が激しすぎて、甘い余韻に包まれた春奈は、うまく返事もできなかった。とろんとした目で藤原を見つめる。
「そんな顔してると、もっと襲うけど?」
春奈は、やっと正気に戻った。ドライヤーの電源を切り、慌てて脱衣所を出る。
バスローブから部屋着に着替えながら、気持ちをしゃんとさせないと、ふらつきそうだと思った。
キ、キスってすごいんだ…。
改めて知って呆然とする。朝食、朝食、と自分に言い聞かせて、キスの余韻をふりはらって、台所に立つ。今日は、和風にしよう、とおにぎりを握る。
いつものように新聞を読んでいる藤原に「できました」と伝えて、一緒に朝食をとる。ほぼ徹夜だったので、春奈はお腹がぺこぺこだった。自分で作ったおにぎりが、我ながらすごく美味しい。
ようやく平常運転に戻った春奈は、美味いな、と言いながらおにぎりを食べる藤原に、ききたかったことを尋ねた。
「あの、昨日、埋められていた絵は、誰が描いたものか、藤原さん、ご存じですか?」
藤原は、お茶をすすり、湯呑を置いてから、言った。
「あれは、兄貴が描いた絵だよ。あのアトリエを使っていた頃に描いた絵だ。兄貴自身も、気に入っていた絵だった」
「そうでしたか、お兄さんが…素晴らしい描き手ですね。やみくもに引き込まれました。そのおかで、私以前のカンを取り戻すことができたんです」
「それはよかった。確か、俺もよく描けてると褒めたことがあったよ」
「でも…それが何で、埋められてたんでしょう」
「そこなんだ。あの絵が無くなって兄貴も随分、探していたよ。海外に行く直前だったから、仕方なく無くなったまま渡米したんだ」
「そうだったんですね…じゃあ、誰が一体そんなことを」
「真相は闇の中だ。タイムカプセルの近くだったからラッキーだったな。あれがなかったら、掘り返すことはなかっただろう」
春奈は頷き、思い切って、次の質問をした。
「それで…あの、描かれていた女性っていうのは」
「ああ、昨日話したルリさんだよ。恋人の存在ってのはすごいな。兄貴の絵の腕をひきあげる力があったんだろうな。あれは会心の作だ」
春奈は、ぎゅっと唇を結んだ。
やっぱり、ルリさんだったんだ。
確かに、あの絵の女性なら、藤原が貸してくれた白いワンピースを難なく着れそうだ。それどころか、きっと着ることで、服をそれ以上の価値にしてしまうような。とんでもなく魅力的な人に違いない。
藤原さんは、ルリさんのことをどう思っていたんだろう…。
きいてしまったら後悔しそうで、春奈はその言葉を心の奥にしまった。
藤原の兄とルリの事情を聞いて、春奈は確かに複雑な気持ちになった。しかし、それは春奈の「絵を描きたい」スイッチを脅かすことはなかった。
素晴らしい絵は、どう見ても、やはり素晴らしい。
いい作品を観て、わきあがってきたもの。それを生かすのは、春奈自身だ。春奈は、胸の内に熱くともる炎が消えない内に、とアトリエにこもった。
毎朝の朝食だけは、しっかり藤原に作り、一緒に食べた。それからはひたすらアトリエにこもり、田代の肖像画にチャレンジした。
数日後。
「で、できた…」
肖像画を描き始めたころと同じ熱量で、田代の肖像画を描き上げることができた。絵の中の田代は、少し頑固そうで、しかしユーモアも忘れないような印象的な男性に仕上がっている。
「気に入ってもらえるといいけど…」
アトリエの壁にある時計は午後17時を指していた。
昨日もほとんど徹夜してしまった。朝方、藤原にサラダとサンドイッチを作り、テーブルに置いておいたのを思い出した。アトリエを出てリビングに行くと、サンドイッチは消えていた。
藤原が食べてくれたのだ、とほっとする。そのままバスルームへ行き、熱いシャワーを浴びた。髪の毛を乾かし、自分の部屋のベッドに倒れこむと、あっという間に眠ってしまった。
目が覚めると22時だった。
朝から何も食べていないのを思い出し、着替えて部屋を出ると、キッチンでリゾットを作った。
卵の入った優しい味に、身体がくつろいでいく。
頭はぼんやりしていたが、肖像画を描き上げた達成感で、胸の内はじんわりと温かかった。
喉が乾いてペットボトルの水を飲んでいると、玄関で音がした。
藤原だ、といそいそと出迎える。
「おかえりなさい」
「ああ、この時間のお迎えは久しぶりだな」
「ごめんなさい。すっかり甘えてしまって。お風呂入られますよね。ビールとおつまみを用意しますね」
「大丈夫か。ゆっくりしてていいんだぞ」
「はい、夕方から寝ていたので、何かしたい気分です」
藤原は、嬉しそうに目を細めて、じゃあ、そうしてもらおうかな、と言った。
おつまみが出来て、テーブルに運んでいると、藤原が浴室からやって来た。Tシャツとジャージ姿だ。風呂上がりのほんのり上気した頬の藤原が何だか可愛かった。
「春奈さんの分も、グラスを持ってきて」
え、と春奈は躊躇した。お酒は弱いので、一緒に飲むことはこれまでなかった。
藤原は二つのグラスを受け取ると、缶ビールを少しだけ注ぎ、春奈に差し出す。受け取ると、藤原が自分のグラスとかちん、と合わせた。
「乾杯。春奈さんがここにいる、ということは、絵が仕上がった。そうだろう」
春奈は、こくりと頷いた。この人には何でもお見通しだ、と思う。
「はい。何とか完成しました。今、すごく満たされています」



