御曹司の甘いささやきと、わたし

第6話 

 春奈も、思わず、じっと見つめてしまう。初めてこの藤原の家に泊まった帰り、着ていくように、と藤原が貸してくれた女物の白いワンピース。
「お嬢様、大切なものは、いつもチェストの上に置かれるでしょう。置いたままになっていたので、本当は、こちらに持ってきたかったんじゃ、と思いましてね。ミネがお持ちしたわけです」
「…ありがとう。家に帰ったら持ってこようと思っていたから助かった」
 ミネの親切はありがたかったが、実は微妙な気持ちだった。これを藤原に返す時、春奈は、このワンピースが誰のものか、藤原に聞いてしまいそうだ。
 その答えが、はっきり言って、怖い。このワンピースを着た時、藤原は何かを考えていた。きっとこの服をかつて着ていた人のことだろう。
 藤原には兄はいるが、女兄弟はいない。服は最近のものとわかるデザインで、十年以上海外から帰っていない、藤原の母のものとも思えない。
 そうすると、やはり藤原と親密な関係の女性であると推測がつく。
 誰のものかと聞いて、すんなり藤原は答えるだろうか。聞きたくない答えになりそうで、ふんぎりがつかず、祖母の家に置いてきてしまった。春奈はクリーニングに出した後のそのワンピースを引き寄せ、心の中で覚悟しなくちゃ、と呟いた。
 ミネは神妙な顔をしている春奈には何も言わず、ゆっくり紅茶を口にした。

 一週間後。夜の七時頃、藤原は仕事から帰ってきた。春奈は、自分の作り置きの夕食を食べるところだった。藤原の帰宅がうれしくて、昼間の疲れもふっとんだ。ウキウキしながらキッチンに立ち、作り置きにプラスするおかずを作る。
 藤原はゆっくり風呂に入り、出て来た時には、藤原帰宅バージョンの夕食ができあがっていた。
 藤原は喜び、早速、箸を進めた。
「うん、美味い。週に一回でも、春奈さんの晩飯が食えるっていうのはいいね。疲れがふっとぶよ。でも、春奈さんだって仕事に集中していたんだろう。俺の夕食まで作って疲れないか」
「大丈夫です。そのくらいの余力は、ちゃんとあります」
 春奈は笑みを作ったが、胸の内に小さなわだかまりがあった。
 もっとノリノリで絵を描いていたころは、食事を忘れることなどしょっちゅうあった。よくミネさんに怒られたものだ。つまり余力がある、ということは本調子ではないことも意味している。
「その顔は、絵で納得してない顔だなあ」
 春奈はお味噌汁を飲んでいたが、思わず椀をテーブルに置いた。
「えっと…わかりますか」
「わかるさ。毎日顔を見てるんだから」
「じゃあ、藤原さんのお話を聞かせてください。今日あったこととか」
「俺の話もいいけど…春奈さん、食事の後、花火しないか。買ってきたんだ」
「花火?」
「うん。早く帰れるなんて、滅多にないから。なんかいつもと違うことがしたかったんだ」
「はい、やりたいです」
 うれしくて思わず大きな声が出てしまった。花火なんて何年ぶりだろう。
 夕食の片づけは、藤原も手伝ってくれた。

 藤原家には広い和室があり、そこの廊下には、縁側がある。庭に向う形で二人で並んで座り、花火の包装紙を開けた。
 藤原がライターで火をつけると、花火は勢いよく光を放った。火が宵闇を切り裂いていく、爽快感がある。
 きゃっきゃとはしゃぎながら、楽しんでいると、いつのまにか線香花火だけが残った。
「これが、いいんだよな、また」
「はい。私も、好きです」
 ジジジジ…と音をたて、火が可愛いらしく弾ける。
「春奈さん」
 藤原が改まった声を出したので、藤原の方を振り返る。
「何かさ、胸ん中に、たまってるものがあるんじゃない」
「え…」
「俺に遠慮して言ってないことがあるだろう。今日は、思い切って吐き出したらいい」
 春奈はうつむいて、じっと線香花火を見つめた。やがて火が小さな玉になり、ぽとりと地面に落ちた。
「おばあちゃんのこと、なんですけど」
「うん」
「思い出したら、咳が出そうで、考えないようにしていて…こうやって忘れていくんだなって頭では理解してるんですけど」
 春奈は、もごもごと歯切れ悪く言った。
「忘れる必要なんてないじゃない」
 藤原に、即座に言われた。ものすごくきっぱりとした言い方だった。
「春奈さんは、おばあちゃんのことだ大好きだったんだろう。忘れられるわけ、ない。
 いいんだよ。今、好きなだけ思い出して。俺、中学時代、飼ってた猫を亡くして」
 パチパチと線香花火が散る。
「可愛がってたからショックでさ。年取った猫だから仕方なかったんだけど。つらくて仕方ない時、忘れようとすると、もっとつらいんだよな。だから、わざと、毎週金曜日は猫の日にしてた」
「猫の日?」
「うん。思い切り、亡くなった猫を思い出す日。その日は泣いてもどうやってもいいんだ。ひたすら、思い出す。それを繰り返してたら、つらかったのが、だんだん猫のことで楽しかった思い出の方が出てくるようになって、泣かなくなっていって。死んでいなくなったって思ったけど、本当はそのへんをうろうろしてるんじゃないかなって、自然と思えるようになった。
よく亡くなった人やペットのことをあなたの心の中にいます、なんて言うけど、それとはまた違うんだよな。もっとちゃんと自分の傍にいる感じ。ただ見えてないだけなんじゃないか、っていう感覚なんだ」
「傍に…いる」
 それなら春奈も少しわかる気がした。絵を描いていて、ふっと顔を上げた時、朝食の材料を切っている時。洗面所で顔を洗っている時。ふとした何気ない時間に、祖母は春奈の横にいるような気がする。
 強く意識すると涙が出そうになるが、何気なく受け入れるとほっこりした気持ちになる。
 でも、と春奈は言った。
「でも、傍にいるから、って安心しちゃうと、祖母のことを思い出す機会が減った気もするんです。祖母の家で絵を描こうとしたら、祖母との思い出が迫ってきて苦しかったし、咳も出てつらかったんです。でも、藤原さんのアトリエで絵を描く時は、祖母のことを忘れていることもあって、藤原さんに明日はどんな朝食を作ろう、とか思っていることが増えているんです。なんだか自分が薄情みたいで」
 おばあちゃんは、わたしのせいで亡くなったのに、と言ってしまいそうになり、口をつぐむ。
「俺さ、思うんだけど。おばあちゃんがが亡くなってもさ、春奈さんのおばあちゃんのことが好きだって気持ちは変らないだろう。好きって気持ちは減らない。10あった好きだって気持ちが、亡くなったことで6になったり4になったりはしないんだ。亡くなったことを悲しんで、その事を忘れちゃいけないと思う。好きだって気持ちを見つめて、10あった好きなら、12とか15にしちゃえばいい。そういう方向に持っていくことで、おばあちゃんが亡くなったことを受け入れられるようになるんじゃないかな」
「好きな気持ち…」
 確かにそうなのだ、悲しい気持ちはわくけれど、それによっておばあちゃんが好きな気持ちには変りない。
「おばあちゃんが好きだってことをもっと中心に考えるってことでしょうか…」
「うん。春奈さんも、作ってみればいいよ、おばあちゃんの日。じゃあ、今から試してみよう。おばあちゃんとのいい思い出を、俺に話してみて」
「えっ、そんな、急に」