「なんていうか…私には、藤原さんに感謝するだけで、膨大な時間がかかりそうです」
藤原のめいっぱいの厚意に、どれだけありがとうと言えばいいのか察せないほどだ。
「感謝だけでなく、手も動いてる。なかなか美味そうだよ」
どうやら料理の見た目が合格のようだ。春奈は、ほっとして椅子に座った。向いあわせでいただきます、を言って一緒に食事する。藤原との距離がまた縮まったようで、嬉しさ胸の内にわいてくる。
「美味そうだと、思ったけど、実際に食べたら」
藤原が言った。春奈は、ごくりと息をのみ、その次の言葉を待った。
「バカみたいに美味いよ。朝食の写真を見て、想像してた通りの味だ。出汁がきいてる」
春奈は、大きく息をついた。
「どれも、ミネさん直伝ですから、間違いないんです」
今日は、初めて、食事を振舞う日だったので、スマホレシピはやめて、ミネさんのとっておきばかりにした。細いのに藤原はよく食べた。好きな人が自分の作った料理を美味しいと言ってくれる喜びを味わえる。藤原に料理を教わって本当によかった、と改めて思った。
翌日。藤原は、春奈よりも先に起きていて、新聞を読んでいた。初めて会った翌日も、こうして新聞を読んでたな、と思った。早起きして、時間を作るのがストレスをためないコツなんだ、と藤原は教えてくれた。朝食は昨日から仕込んでおいたフレンチトーストにした。これこれ、と藤原は喜んで食べ、あっという間に出勤の時間となった。
玄関で見送ろうとする春奈に、藤原が改まった視線をよこした。
「…頑張って。でも、無理はするなよ」
絵のことを言ってくれているのだと春奈もわかり、深く頷いた。
「はい。頑張ります」
藤原も頷いて、ドアを開け、出て行った。藤原は自分の仕事の愚痴をいっさい言わないが、きっとこれから夜遅くまで仕事と闘うのだろう。
藤原さんも闘ってる。私も、やらなきゃ。
朝食の後片付けと、軽く掃除をした後、春奈は気持ちを奮い立たせてアトリエに行った。
増築されたと聞いているが、白い壁に大きな窓がある造りになっていた。藤原にもらった鍵でドアを開ける。
十年以上使っていないので、藤原は清掃業者に掃除してもらった、と言っていた。それでも、キャンバスやイーゼルは無造作に置いてあり、藤原の兄の気配がちらりとした。
春奈は、ゆっくり深呼吸した。
ここに来るまで、ドキドキだった。
咳が出たら、昨日今日と味わった、藤原との楽しい時間が、もう持てない。
藤原との時間を大切にしたかったら、絵を描くのを先延ばしにすればいい。藤原なら、きっとそれを責めたりしない。
でも、今日、頑張って、と言われた。無理はするな、とも。
絵から逃げ出す春奈を、きっと藤原は好きじゃない。面と向かって言われたわけではないけれど、それは何となくわかる。
アトリエの中央にある、テーブルの傍の丸椅子に座る。また深呼吸して、持ってきた大判のスケッチブックを開く。
一年以上、肖像画を待たせている田島という老人の写真の入ったフォトスタンドをテーブルに立てる。それを見ながら、紙の上に鉛筆を走らせる。
ここまでで、咳は出ていない。
春奈は、きゅっと唇を結び、さらに手を動かした。
藤原は、夜の十二時くらいに帰ってきた。春奈がそろそろ寝ようかな、というタイミングだったので、いそいそと出迎えた。
藤原は、さっとシャワーを浴びて、その間に春奈は、つまみを用意した。浴室からリビングにやってきた藤原に、ビールとおつまみを出すと、藤原の顔がふにゃっとふやけた。
「え、じゃあ。咳は出なかったんだ」
藤原のくつろいだ顔が、さらにぱあっと明るくなった。
「はい。三時間くらい描いてたんですが、咳は出ませんでした」
「よかったじゃないか。転地療養、成功だ」
藤原が、前のめりに言ってくれる。春奈は、でも、と声を固くした。
「まだ、ダメです。全然、ダメ」
春奈は、今日描いたスケッチブックの絵を藤原の前に差し出した。
「…男性の絵だね」
「はい、田島さんと言って、以前から私の肖像画を待っている方です」
「見た限りじゃ、いい絵だと思うけど…よく描きこんであるし」
春奈は、首を振った。
「違うんです。これじゃ、ただの似顔絵。もっと田島さんらしさを出せないとダメなんです。以前肖像画を描いていた時は、自然とそれが見えてた。でも、今は、ゴールがあやふやで、うまくたどり着けないんです」
「そうか…でも、今日、始めたばかりじゃないか。焦ること、ないよ」
春奈は、こくり、と頷いた。
今日は、確かに自分の描いた絵に納得いかなかった。寝る前にゆっくりハーブティーを飲み、ベッドについてから、翌日に作る朝食のことを考えた。絵がうまく描けないからと言って、朝食に影響が出ないようにしたい。藤原が喜ぶ顔を思い浮かべると、絵のことで眉間に皺を寄せていたのが、ほぐれていく。
そうだ、ベーグルサンドにしよう。この家から歩いて五分のところに美味しいパン屋さんがあると聞いている。行ったことのない店に行くのも楽しみだ。
わくわくした気持ちになってくると、だんだん肩の力が抜けていく。ゆっくりと睡魔はやってきて、春奈は眠りについた。
翌朝五時。顔を洗って、パジャマから着替えると、藤原の寝室に遠い部屋からワイパーで掃除していく。浴室や洗面所、化粧室は念入りにぴかぴかにする。
五時半になると、藤原が起きてきた。
「早いね、春奈さん」
「ごめんなさい、うるさくなかったですか?」
「いや?俺はいつもの時間に起きただけ。新聞とってくるよ」
「あ、ここにあります」
玄関も拭き掃除をしたので、ポストから新聞もとっておいた。
そろそろ六時前になったタイミングで春奈はパン屋へ行き、ベーグルを買い込んだ。想像以上に美味しそうなパンばかりで目移りする。しかし、焼きたてのベーグルだけを買って、藤原家に戻ると、すぐサンドイッチにした。
できあがると、ちょうど藤原の朝食の時間で、一緒に食べることにする。初めて行ったパン屋の話などして、楽しいひとときになった。
すぐに藤原の出勤時間となり、玄関に見送る。出ていく時に、
「よかった。春奈さんが元気そうで。昨日は思い詰めた顔をしていたから」
「昨日は昨日で、今日は今日ですから」
春奈、にっこり微笑んだ。藤原も口角をあげ、行ってくるよ、といつもの素敵なスーツ姿で出勤した。
毎日、朝、見送れるなんて最高だな、と春奈は思いながらこれからの段どりを考えた。まず掃除をして、昼食、夕食などの自分の食事を作り置きしておく。こうしておくと、絵を描くことに集中できる。昨日は、咳が出ないか心配で、そこまで気が回らなかった。だが。今日は違う。もう咳の心配はないので、しっかり絵に向き合うための準備をする。
絵のスイッチはまだまだだが、家事のスイッチはしっかり入る。これも藤原のおかげだとてきぱきと身体を動かしていく。
昨日とは違う、今日の自分で、春奈は自分の絵を描きたい、という気持ちを高めていった。
さて、アトリエに行こう、というタイミングで玄関のチャイムが鳴った。
誰だろう…宅配便がある時は、藤原は事前に教えてくれる。
藤原のめいっぱいの厚意に、どれだけありがとうと言えばいいのか察せないほどだ。
「感謝だけでなく、手も動いてる。なかなか美味そうだよ」
どうやら料理の見た目が合格のようだ。春奈は、ほっとして椅子に座った。向いあわせでいただきます、を言って一緒に食事する。藤原との距離がまた縮まったようで、嬉しさ胸の内にわいてくる。
「美味そうだと、思ったけど、実際に食べたら」
藤原が言った。春奈は、ごくりと息をのみ、その次の言葉を待った。
「バカみたいに美味いよ。朝食の写真を見て、想像してた通りの味だ。出汁がきいてる」
春奈は、大きく息をついた。
「どれも、ミネさん直伝ですから、間違いないんです」
今日は、初めて、食事を振舞う日だったので、スマホレシピはやめて、ミネさんのとっておきばかりにした。細いのに藤原はよく食べた。好きな人が自分の作った料理を美味しいと言ってくれる喜びを味わえる。藤原に料理を教わって本当によかった、と改めて思った。
翌日。藤原は、春奈よりも先に起きていて、新聞を読んでいた。初めて会った翌日も、こうして新聞を読んでたな、と思った。早起きして、時間を作るのがストレスをためないコツなんだ、と藤原は教えてくれた。朝食は昨日から仕込んでおいたフレンチトーストにした。これこれ、と藤原は喜んで食べ、あっという間に出勤の時間となった。
玄関で見送ろうとする春奈に、藤原が改まった視線をよこした。
「…頑張って。でも、無理はするなよ」
絵のことを言ってくれているのだと春奈もわかり、深く頷いた。
「はい。頑張ります」
藤原も頷いて、ドアを開け、出て行った。藤原は自分の仕事の愚痴をいっさい言わないが、きっとこれから夜遅くまで仕事と闘うのだろう。
藤原さんも闘ってる。私も、やらなきゃ。
朝食の後片付けと、軽く掃除をした後、春奈は気持ちを奮い立たせてアトリエに行った。
増築されたと聞いているが、白い壁に大きな窓がある造りになっていた。藤原にもらった鍵でドアを開ける。
十年以上使っていないので、藤原は清掃業者に掃除してもらった、と言っていた。それでも、キャンバスやイーゼルは無造作に置いてあり、藤原の兄の気配がちらりとした。
春奈は、ゆっくり深呼吸した。
ここに来るまで、ドキドキだった。
咳が出たら、昨日今日と味わった、藤原との楽しい時間が、もう持てない。
藤原との時間を大切にしたかったら、絵を描くのを先延ばしにすればいい。藤原なら、きっとそれを責めたりしない。
でも、今日、頑張って、と言われた。無理はするな、とも。
絵から逃げ出す春奈を、きっと藤原は好きじゃない。面と向かって言われたわけではないけれど、それは何となくわかる。
アトリエの中央にある、テーブルの傍の丸椅子に座る。また深呼吸して、持ってきた大判のスケッチブックを開く。
一年以上、肖像画を待たせている田島という老人の写真の入ったフォトスタンドをテーブルに立てる。それを見ながら、紙の上に鉛筆を走らせる。
ここまでで、咳は出ていない。
春奈は、きゅっと唇を結び、さらに手を動かした。
藤原は、夜の十二時くらいに帰ってきた。春奈がそろそろ寝ようかな、というタイミングだったので、いそいそと出迎えた。
藤原は、さっとシャワーを浴びて、その間に春奈は、つまみを用意した。浴室からリビングにやってきた藤原に、ビールとおつまみを出すと、藤原の顔がふにゃっとふやけた。
「え、じゃあ。咳は出なかったんだ」
藤原のくつろいだ顔が、さらにぱあっと明るくなった。
「はい。三時間くらい描いてたんですが、咳は出ませんでした」
「よかったじゃないか。転地療養、成功だ」
藤原が、前のめりに言ってくれる。春奈は、でも、と声を固くした。
「まだ、ダメです。全然、ダメ」
春奈は、今日描いたスケッチブックの絵を藤原の前に差し出した。
「…男性の絵だね」
「はい、田島さんと言って、以前から私の肖像画を待っている方です」
「見た限りじゃ、いい絵だと思うけど…よく描きこんであるし」
春奈は、首を振った。
「違うんです。これじゃ、ただの似顔絵。もっと田島さんらしさを出せないとダメなんです。以前肖像画を描いていた時は、自然とそれが見えてた。でも、今は、ゴールがあやふやで、うまくたどり着けないんです」
「そうか…でも、今日、始めたばかりじゃないか。焦ること、ないよ」
春奈は、こくり、と頷いた。
今日は、確かに自分の描いた絵に納得いかなかった。寝る前にゆっくりハーブティーを飲み、ベッドについてから、翌日に作る朝食のことを考えた。絵がうまく描けないからと言って、朝食に影響が出ないようにしたい。藤原が喜ぶ顔を思い浮かべると、絵のことで眉間に皺を寄せていたのが、ほぐれていく。
そうだ、ベーグルサンドにしよう。この家から歩いて五分のところに美味しいパン屋さんがあると聞いている。行ったことのない店に行くのも楽しみだ。
わくわくした気持ちになってくると、だんだん肩の力が抜けていく。ゆっくりと睡魔はやってきて、春奈は眠りについた。
翌朝五時。顔を洗って、パジャマから着替えると、藤原の寝室に遠い部屋からワイパーで掃除していく。浴室や洗面所、化粧室は念入りにぴかぴかにする。
五時半になると、藤原が起きてきた。
「早いね、春奈さん」
「ごめんなさい、うるさくなかったですか?」
「いや?俺はいつもの時間に起きただけ。新聞とってくるよ」
「あ、ここにあります」
玄関も拭き掃除をしたので、ポストから新聞もとっておいた。
そろそろ六時前になったタイミングで春奈はパン屋へ行き、ベーグルを買い込んだ。想像以上に美味しそうなパンばかりで目移りする。しかし、焼きたてのベーグルだけを買って、藤原家に戻ると、すぐサンドイッチにした。
できあがると、ちょうど藤原の朝食の時間で、一緒に食べることにする。初めて行ったパン屋の話などして、楽しいひとときになった。
すぐに藤原の出勤時間となり、玄関に見送る。出ていく時に、
「よかった。春奈さんが元気そうで。昨日は思い詰めた顔をしていたから」
「昨日は昨日で、今日は今日ですから」
春奈、にっこり微笑んだ。藤原も口角をあげ、行ってくるよ、といつもの素敵なスーツ姿で出勤した。
毎日、朝、見送れるなんて最高だな、と春奈は思いながらこれからの段どりを考えた。まず掃除をして、昼食、夕食などの自分の食事を作り置きしておく。こうしておくと、絵を描くことに集中できる。昨日は、咳が出ないか心配で、そこまで気が回らなかった。だが。今日は違う。もう咳の心配はないので、しっかり絵に向き合うための準備をする。
絵のスイッチはまだまだだが、家事のスイッチはしっかり入る。これも藤原のおかげだとてきぱきと身体を動かしていく。
昨日とは違う、今日の自分で、春奈は自分の絵を描きたい、という気持ちを高めていった。
さて、アトリエに行こう、というタイミングで玄関のチャイムが鳴った。
誰だろう…宅配便がある時は、藤原は事前に教えてくれる。



