男性は新聞から顔をあげ、きょとんとした顔をした。そんな顔すら、整っていて綺麗だ。
「あー、名前は、藤原だ」
春奈は、頷いて、言った。
「藤原さん、本当にありがとうございました。この御礼は、ちゃんとさせていただきます」
今度は、意識的に頭を下げたが、視界がゆがんだりしなかった。食べるって大事だ。
藤原は、かりかりと自分の頬をかいた。
「いや、あの…ひょっとして、自力で帰れると思ってる?」
言われた言葉の意味がわからず、春奈は藤原の顔を見つめた。
「おかゆぐらいじゃ、歩けないと思うけど」
「そんなはず」
ないですよ、と言ってベッドから立とうとした。さっきは大丈夫と思ったのに、体にうまく力が入らない。
「あ、あれ…」
「今晩は、ここに泊まっていけばいい。もう時間も遅いしな」
部屋のドアの脇に時計があった。もう9時を過ぎている。
「そんな、ご迷惑かけられません」
「うちから出た後に、また倒れられたら寝ざめが悪いから。ちょうど俺は休暇中なんだ。
宿屋に来たつもりで過ごしたらいい」
「宿屋って…」
なんて太っ腹な人なんだろう。自分だったら、たまたま通りすがりの倒れた人の面倒を、こんなにみれるだろうか。背が高くて、美形なだけでなく、懐も深い。
すごい、と尊敬のまなざしを向けると、藤原は、何を思ったのか、違うぞ、と声を大きくした。
「え?」
「泊まらせて、襲おうなんて思ってないからな。体調崩してる女に手を出すほど不自由してない」
なるほど、美形の藤原が言うと、負け惜しみに聞こえない。言葉通りモテるだろうな、と春奈は、思った。
「そうですね。そんな風に見えないです」
納得、という顔をして、春奈は、また藤原を見つめた。
藤原は、息をひとつ吐いて、言った。
「そこまで警戒心がないのも…まあ、いい。俺がいると眠れないだろう。隣の部屋にいる。なんかあったら、起こしていいから。トイレはドアを出てつきあたりだ」
新聞を折りたたんで、藤原は、椅子から立ち上がった。器の乗ったトレイを手に取る。
「い、いろいろすみません…」
恐縮して、そう言うしかなかった。
「そういう時は、ありがとう、だ」
にやっと、藤原は笑った。あ、こんな風に笑うんだ、と春奈は思った。
「そうだ、家族に、ここに泊まると連絡しなくていいか」
「はい。一人暮らしなので」
「ふうん。そうだ、そっちの名前をきいてなかったな」
「あ…片岡春奈です」
「了解。おやすみ、春奈さん」
ドアはばたん、と閉められ、春奈のベッドサイドのチェストの上には、水のペットボトルが置かれていた。
気が利くなあ…と感心していたら、眠気が襲ってきて、春奈は目をつむった。
翌朝、春奈は目を覚まして、ベッドから起き上がってみた。ちゃんと食べてしっかり眠ったのがよかったのか、昨夜のようなふらつきがない。ぺたぺたとフローリングの床を歩き、部屋の外に出た。
廊下を歩くと、リビングの戸が開かれていた。入っていくと、ソファに座って藤原が新聞を読んでいる。
「おはようございます」
ああ、と藤原が新聞から顔をあげる。
「起きたか。朝メシにしよう。食べれるだろう?」
はい、と言うと、藤原は、すぐにリビングの奥にあるキッチンに向った。あらかた用意がしてあったようで、キッチンの傍のテーブルには、あっという間に料理が並んだ。サラダ、目玉焼き、クロワッサンに、牛乳、オレンジジュース。
「すごい。美味しそう」
思わず歓喜の声が出た。こんなちゃんとした朝食は久しぶりだ。
キッチンを見渡しても、藤原しかいない。
「これ…藤原さんが作ったんですか?」
讃嘆の気持ちを込めて、春奈は言った。
「そうだ。昨日、聞こうと思ったんだが美術館に行く金があるのに、どうしてメシを食わないんだ。ダイエットが必要な体には見えないが」
「あの、冷蔵庫に何も入ってなかったので。美術館の帰りに食べ物を買おうと思ってたんです…」
「はあ。倒れるまで食わないとか、意味がわからんな。いいか、人生の基本はまず、自分の体を労わることだ。それができないと、他人の世話も焼けないだろう」
「は、はい…」
確かにその通りだ。ミネさんにも、いつも、もっとご自分の体を大事にしないと、と言われていたのだ。
自分のことは自分で何とかできると思っていたのに、こうして他人様にお世話をかけている。春奈は、随分、自分がダメな人間に思えてきた。
「あ、いや。すまん。一方的に言い過ぎたな。とりあえず食おう」
春奈は、藤原のテーブルの向かいの席に座った。
いただきます、と言い合って、春奈はサラダから食べ始めた。さわやかなドレッシングが美味しくて食が進む。さらにクロワッサンも熱々だし、目玉焼きも半熟で春奈の好みだ。
「すごく…美味しいです。ありがとうございます」
「これくらい大したことない。君は一人暮らしと言ってたな。アパートに?」
「えっと一軒家です」
「ご両親が海外赴任とか?」
「両親は亡くなってて…祖母と暮らしてたんですが、半年前に亡くなって。家政婦のミネさんは腰痛でおうちに帰っていて、それで私、一人で」
「かせいふ。まさかと思うが…ひょっとして、料理ができない?」
春奈は、ぎくりとした。実は、そうなのだ。ミネさんに頼りっぱなしだったので、料理というものをしたことがない。春奈は、こくり、と頷いた。
「コンビニで弁当とか、買わなかったのか」
「えっと…コンビニに行く習慣がなくて…スイーツなら買ったこと、あります」
藤原は、眉間に皺をよせた。
「…予想を越えたお嬢様だな。食事は家政婦まかせだったわけか。…よし、決めた。
朝食をとったら、昼食の準備をしよう。君に料理のいろはを教える」
「え?」
「君は食べたらシャワーでも浴びたらいい。服は貸すよ」
「ありがとうございます…」
またしても恐縮してしまうが、確かにシャワーを浴びたかった。洗顔もして、さっぱりしたい。朝食を食べ終えて、食器の後片付けをしようとしたら、いいからシャワーを、と促されてしまった。
シャワーを浴びて、だぼだぼの藤原のジャージの上下を着て。リビングに行くと、キッチンで、藤原が野菜を冷蔵庫から出しているところだった。春奈を見て、藤原は言った。
「よし、さっぱりしたな。これから焼きそばを作る。こっちに来い」
春奈は、はい、とシステムキッチンの前に立つ、藤原の横に並んだ。どうやら、本気で春奈に料理を教えてくれるらしい。
お世話になりっぱなしだが、料理を覚えるチャンスだと思おう。シャワーを浴びたせいか、気持ちもしゃんとしている。
「よろしくお願いします」
春奈が頭を下げると、藤原は、まず野菜を切るところから、と言った。
果たして、藤原の丁寧な指導のもと、野菜たっぷりの焼きそばができあがった。一人前を半分ずつにして、食べた。自分が作ったと思うと小食の春奈でも、食べてみたい気持ちが強くて、あっさり食べてしまった。
「…自分で作ったのに、美味しい」
驚きながら呟く。
「教え方がいいからな。まあ、春奈さんも筋はわるくない。油をひいて炒める、ができるようになったんだ。フライパン料理からちょっとずつ覚えていけばいい」
「はい」
「あー、名前は、藤原だ」
春奈は、頷いて、言った。
「藤原さん、本当にありがとうございました。この御礼は、ちゃんとさせていただきます」
今度は、意識的に頭を下げたが、視界がゆがんだりしなかった。食べるって大事だ。
藤原は、かりかりと自分の頬をかいた。
「いや、あの…ひょっとして、自力で帰れると思ってる?」
言われた言葉の意味がわからず、春奈は藤原の顔を見つめた。
「おかゆぐらいじゃ、歩けないと思うけど」
「そんなはず」
ないですよ、と言ってベッドから立とうとした。さっきは大丈夫と思ったのに、体にうまく力が入らない。
「あ、あれ…」
「今晩は、ここに泊まっていけばいい。もう時間も遅いしな」
部屋のドアの脇に時計があった。もう9時を過ぎている。
「そんな、ご迷惑かけられません」
「うちから出た後に、また倒れられたら寝ざめが悪いから。ちょうど俺は休暇中なんだ。
宿屋に来たつもりで過ごしたらいい」
「宿屋って…」
なんて太っ腹な人なんだろう。自分だったら、たまたま通りすがりの倒れた人の面倒を、こんなにみれるだろうか。背が高くて、美形なだけでなく、懐も深い。
すごい、と尊敬のまなざしを向けると、藤原は、何を思ったのか、違うぞ、と声を大きくした。
「え?」
「泊まらせて、襲おうなんて思ってないからな。体調崩してる女に手を出すほど不自由してない」
なるほど、美形の藤原が言うと、負け惜しみに聞こえない。言葉通りモテるだろうな、と春奈は、思った。
「そうですね。そんな風に見えないです」
納得、という顔をして、春奈は、また藤原を見つめた。
藤原は、息をひとつ吐いて、言った。
「そこまで警戒心がないのも…まあ、いい。俺がいると眠れないだろう。隣の部屋にいる。なんかあったら、起こしていいから。トイレはドアを出てつきあたりだ」
新聞を折りたたんで、藤原は、椅子から立ち上がった。器の乗ったトレイを手に取る。
「い、いろいろすみません…」
恐縮して、そう言うしかなかった。
「そういう時は、ありがとう、だ」
にやっと、藤原は笑った。あ、こんな風に笑うんだ、と春奈は思った。
「そうだ、家族に、ここに泊まると連絡しなくていいか」
「はい。一人暮らしなので」
「ふうん。そうだ、そっちの名前をきいてなかったな」
「あ…片岡春奈です」
「了解。おやすみ、春奈さん」
ドアはばたん、と閉められ、春奈のベッドサイドのチェストの上には、水のペットボトルが置かれていた。
気が利くなあ…と感心していたら、眠気が襲ってきて、春奈は目をつむった。
翌朝、春奈は目を覚まして、ベッドから起き上がってみた。ちゃんと食べてしっかり眠ったのがよかったのか、昨夜のようなふらつきがない。ぺたぺたとフローリングの床を歩き、部屋の外に出た。
廊下を歩くと、リビングの戸が開かれていた。入っていくと、ソファに座って藤原が新聞を読んでいる。
「おはようございます」
ああ、と藤原が新聞から顔をあげる。
「起きたか。朝メシにしよう。食べれるだろう?」
はい、と言うと、藤原は、すぐにリビングの奥にあるキッチンに向った。あらかた用意がしてあったようで、キッチンの傍のテーブルには、あっという間に料理が並んだ。サラダ、目玉焼き、クロワッサンに、牛乳、オレンジジュース。
「すごい。美味しそう」
思わず歓喜の声が出た。こんなちゃんとした朝食は久しぶりだ。
キッチンを見渡しても、藤原しかいない。
「これ…藤原さんが作ったんですか?」
讃嘆の気持ちを込めて、春奈は言った。
「そうだ。昨日、聞こうと思ったんだが美術館に行く金があるのに、どうしてメシを食わないんだ。ダイエットが必要な体には見えないが」
「あの、冷蔵庫に何も入ってなかったので。美術館の帰りに食べ物を買おうと思ってたんです…」
「はあ。倒れるまで食わないとか、意味がわからんな。いいか、人生の基本はまず、自分の体を労わることだ。それができないと、他人の世話も焼けないだろう」
「は、はい…」
確かにその通りだ。ミネさんにも、いつも、もっとご自分の体を大事にしないと、と言われていたのだ。
自分のことは自分で何とかできると思っていたのに、こうして他人様にお世話をかけている。春奈は、随分、自分がダメな人間に思えてきた。
「あ、いや。すまん。一方的に言い過ぎたな。とりあえず食おう」
春奈は、藤原のテーブルの向かいの席に座った。
いただきます、と言い合って、春奈はサラダから食べ始めた。さわやかなドレッシングが美味しくて食が進む。さらにクロワッサンも熱々だし、目玉焼きも半熟で春奈の好みだ。
「すごく…美味しいです。ありがとうございます」
「これくらい大したことない。君は一人暮らしと言ってたな。アパートに?」
「えっと一軒家です」
「ご両親が海外赴任とか?」
「両親は亡くなってて…祖母と暮らしてたんですが、半年前に亡くなって。家政婦のミネさんは腰痛でおうちに帰っていて、それで私、一人で」
「かせいふ。まさかと思うが…ひょっとして、料理ができない?」
春奈は、ぎくりとした。実は、そうなのだ。ミネさんに頼りっぱなしだったので、料理というものをしたことがない。春奈は、こくり、と頷いた。
「コンビニで弁当とか、買わなかったのか」
「えっと…コンビニに行く習慣がなくて…スイーツなら買ったこと、あります」
藤原は、眉間に皺をよせた。
「…予想を越えたお嬢様だな。食事は家政婦まかせだったわけか。…よし、決めた。
朝食をとったら、昼食の準備をしよう。君に料理のいろはを教える」
「え?」
「君は食べたらシャワーでも浴びたらいい。服は貸すよ」
「ありがとうございます…」
またしても恐縮してしまうが、確かにシャワーを浴びたかった。洗顔もして、さっぱりしたい。朝食を食べ終えて、食器の後片付けをしようとしたら、いいからシャワーを、と促されてしまった。
シャワーを浴びて、だぼだぼの藤原のジャージの上下を着て。リビングに行くと、キッチンで、藤原が野菜を冷蔵庫から出しているところだった。春奈を見て、藤原は言った。
「よし、さっぱりしたな。これから焼きそばを作る。こっちに来い」
春奈は、はい、とシステムキッチンの前に立つ、藤原の横に並んだ。どうやら、本気で春奈に料理を教えてくれるらしい。
お世話になりっぱなしだが、料理を覚えるチャンスだと思おう。シャワーを浴びたせいか、気持ちもしゃんとしている。
「よろしくお願いします」
春奈が頭を下げると、藤原は、まず野菜を切るところから、と言った。
果たして、藤原の丁寧な指導のもと、野菜たっぷりの焼きそばができあがった。一人前を半分ずつにして、食べた。自分が作ったと思うと小食の春奈でも、食べてみたい気持ちが強くて、あっさり食べてしまった。
「…自分で作ったのに、美味しい」
驚きながら呟く。
「教え方がいいからな。まあ、春奈さんも筋はわるくない。油をひいて炒める、ができるようになったんだ。フライパン料理からちょっとずつ覚えていけばいい」
「はい」



