御曹司の甘いささやきと、わたし

 友恵が、春奈が荷物を詰めてみた、段ボールを開けて言った。
 中には、食器類が入っている。
「え、お気に入りのばっかりなんだけど」
「何言ってんの。藤原さんとこは、以前、家族と住んでた家でしょ。食器くらいはあるわよ。持ってくのは、マグカップくらいでいいわよ」
「そ、そうなの?」
「そうよ。この家をひきはらうこともないんでしょ。お気に入りは持っていかなくても、またここに来てどうしても必要だったら運べばいいじゃない。でも最初から持ってくのはNGかな。荷物の多い女は嫌われるわよ」
「そ、そうか。わかった」
 一人暮らしをしたことのない春奈には、なかなか取捨選択が難しい。友恵がいてくれてよかった、と胸をなでおろす。
 ミネさんにちらりと相談したら、あれもこれも、と大荷物になりそうだったので、慌てて、ありがとう、自分でなんとかするね、と言ったのだが。自分でやろうとしても、結局は、段ボールが増えていきそうで、友恵を呼んだのだった。
「そういえば、ミネさんはどうなるの?」
「今まで通り、週に一回来てもらって、掃除とかお願いした。家って空き家になると、荒れるっていうし」
「そうね、それがいいわね」
 友恵の指導により、当面、着る服と靴、化粧品に、大事な本とマグカップが入った段ボールが二つに絞ることができた。絵の道具を絞るのは、春奈が自分でやるしかない。
「ねえ、それで藤原さんとは、どこまでいったの」
「え、公園とか、スペイン料理のお店とか」
「違います。キスとかセックスのことよ」
「セ!」
 春奈から遠い言葉が出てきて、思わず、顔が真っ赤になる。
「キスしかしてないっ」
「なんだ、キスはしてんじゃーん」
 友恵にからかわれてしまった。藤原とのキスは、春奈からしたら大事な思い出で、こっそり自分の中で温めておきたかったのだ。しかし、言わされてしまった。
「どうだった?キス、嫌じゃなかった?」
 ぐいぐいくるな、と思いながらも、春奈はあの時のことを思い出した。
「うん…嫌じゃ、なかった」
 今でも時々思い出す、ふわっとした藤原の唇。
「そっか。よかった。絵のことに目がくらんで、とかじゃないのね。ちゃんと春奈が藤原さんのことが好きなら、それでいいんだ」
「うん…」
 藤原のことが好き。その気持ちに揺れはない。
 ただ、藤原が自分のことを、自分と同じように好きかどうかは疑問が残る。
「藤原さんは、私のこと、どう思ってるのかな…」
 思わず、言葉がもれてしまった。
 ふっ、と友恵の顔が優しくなった。
「うん。自分が好きな人の気持ちってよくわからないよね。私もやっくんの気持ちが100%わかるわけじゃないんだ。自分の好きっていう気持ちが邪魔をして、相手の気持ちを正確に捉えられないっていうかさ…」
「友恵でも…そうなの?」
「うん。私たち、うまくいってるよね、って思ってるけど。私だけの思い込みかもしれないし。いつかやっくんに好きな人ができるんじゃ、って考えることもある」
 不意に、あの倒れた翌日の朝、藤原が白いワンピースを貸してくれたことを思い出す。
あれは誰のものなのか。藤原にきいてみたいと思うものの、踏み込んでいいことなのかわからなくて、きけずにいる。
 今は小さな点、くらいの気持ちだが、藤原と暮らすようになったら、点が次第に大きくなりそうな気もする。
 人を好きになるって大変だ。いろんな気持ちが芽生えてくる。
「ま、相手の気持ちなんてさ、厳密にはわからないんだから、自分のベストを尽くすしかないんだよ。春奈の朝ごはん、美味しいの作ってあげなよ」
「うん…そうする」
 そうなのだ。春奈に今からできそうなのは、藤原に美味しい朝ごはんを作ってあげることくらいだ。地道に美味しいごはんを研究しよう。
「春奈さ、料理するようになった、って言うようになって、顔つきが変わったんだよね。それまでは絵が描けない…ってずっと気にしてて。なんていうか、顔が半分死んでたんだよね。それが、なんか生気を帯びてきて、バイトもするって言うし。愛の力ってすごいね。人を変えるんだね」
「愛なのかな…よくわからないけど、探してたスイッチを見つけた感じだったよ。絵のスイッチはまだだけど、それ以外のところの自分がぱあっと目が覚めた気がした」
 友恵の半分死んでた、という言葉は、沁みた。そう、おばあちゃんのこともあって絵を描けない自分を責めていた。でも、西橋美術館で倒れて、藤原と出会ってから、今まで見たことのないところから光が差してくるのを感じた。
 友恵の言うように、藤原のおかげで自分は少し、変ったのかもしれない。
 春奈は、改めてそう思い、朝ごはんがんばらなきゃ、と自分を鼓舞した。

 絵の道具を吟味し、いよいよ藤原の家へ引っ越すことになった。と言っても必要最低限のものを持って行くだけで、祖母の家も大切にしたい。当面は、月に一、二度はここにも帰って、ミネの掃除を手伝ったりするつもりだ。
 五月の中旬の日曜日。今日は仕事の予定を入れていない、という藤原が、春奈を迎えに来た。
「本当に荷物はこれだけでいいの?」
 春奈の段ボールは三つだった。トランクや後部座席に収まる程度だ。
「はい、まだ祖母の家に残せますし」
「そうか。春奈さんが納得しているならいいけど。足りなくなったら俺に言って。一緒に取りに来よう」
「はい。ありがとうございます」
 と言いつつ、それが難しいことも春奈は知っている。朝ごはんのラインは続いていたが、
ちょっとしたやりとりに藤原の多忙さがにじみ出ていた。
 朝方まで仕事だった、なんていう日も多い。今日一日、空けるのだって、随分仕事をやりくりしたに違いない。
 必要なものは、私が自分で運べばいいや。
 データ入力のバイトも昨日までで辞めさせてもらった。春奈が思っていたより役に立っていたようで、いつでも戻ってきて、と上司に言われてしまった。働き口があるってなんていいことだろう、とありがたさを噛みしめた。お世話になった御礼に祖母が贈り物によく使っていた老舗の菓子店の折詰を上司に渡して、退社した。
 難色を示したの友恵で、
「春奈とランチ行けなくなったじゃない」
 と、むくれてしまった。何よりも友恵から紹介してもらったバイトだ。当面は、マメに藤原との生活を報告することで、許してもらった。
 十四時。荷物を車に乗せてもらい、春奈は助手席に乗った。春奈の新生活に向けてのドキドキする気持ちを乗せて、車は出発した。
「藤原さん、今日は夜は何か予定が入っていますか?」
 これまでも昼に会っても夜、会食があるパターンが多かった。
「いや。春奈さんとの大事な日だからね。なにも入れてないよ」
「そうでしたか。あの、では夕食を作らせてください」
「いいの?荷物をほどいたりして、疲れるだろう」
「いえ。大した量じゃないですし、大丈夫です」
 春奈は藤原と暮らすと決まって、いつも以上に料理の練習をした。マメにレシピをスマホで漁り、片っ端から作っては、ミネや友恵に食べてもらっていた。たまに失敗することもあったが、味の評価はなかなかよかった。藤原の口にあうだろうか、という心配はあるが。
「そうか。じゃあ、お言葉に甘えようかな。いよいよ春奈さんのメシが食えるわけだ。楽しみだな」