御曹司の甘いささやきと、わたし

第5話

「それじゃ…春奈と暮らしたい。と?」
 秋江が訝し気な目で言った。
 春奈の叔母の秋江と、藤原の三人で中崎ホテルのカフェで、話をすることになった。
 確かに、春奈の親戚はこの叔母一人なので、契約結婚の(秋江には結婚と言うが)報告はすべきだろう。
「そうなんです。ちょっとしたことで知り合って意気投合してしまって。春奈さんからも、承諾を得ています」
 藤原は、スーツを着て、仕事でプレゼンをするように滑らかに話した。春奈は、自分が説明したら、しどろもどろになっただろうと思う。藤原が言ってくれて助かった。
「藤原サイクルの社長さんと出会うなんて…春奈、願ってもないお話じゃないの」
 秋江は顔を綻ばせた。秋江からしたら、あの家から春奈を追い出したくて仕方なかたったのだから喜ぶのは当然だ。しかも藤原サイクルという大手メーカーに、一も二もなく金の匂いを感じ、嬉しがっているようにも見える。
「まだ、どうなるかわからないから、半年ごとの更新みたいになると思うけど」
 春奈は言った。藤原の家で。絵が描けるという保証はない。さらに、春奈は祖母以外の人と暮らすなんて、初めてのことだ。あくまでもお試し期間であることをわかってもらいたい。
「なるほど、石橋は叩いてみたいのね。まあ、いいんじゃない」
 そう言いながら、春奈の不在をいいことに、祖母の家を、さっさとリフォームしそうだ。
 古民家レストランをやるために。
「春奈さんから聞いたんですが、秋江さんは、あの家で古民家レストランをやりたいんですよね」 
 春奈が事情を説明したので、藤原も秋江の目論見はわかっている。
「そうなの。あの家、古いけど、モダンなとこもあるでしょ。レストランをやるには、ぴったりだと思うのよ」
 歌うように秋江は言う。大丈夫なんだろうか、と春奈は訝しがる。確か、海外から日本に帰ってきたのも、向こうでの事業に失敗したからだと、ミネから聞いたことがある。
「実は。そのことで、提案があってきました」
「提案?」
「はい。あの家を、彼女に貸してください。家賃を僕が払います。これくらいでいかがでしょう」
 春奈は、はっとした。その話は聞いていなかった。
 藤原は、自分の手帳にさらさらと何か書き、それを秋江に見せた。
「賃貸料はこれくらいでいかがですか?」
「なっ。なんですって」
 あからさまに秋江は驚いた。
「この額を毎月振り込んでくれるって言うの」
「はい。大事なお嬢さんをお借りするんです。これくらいのことはさせてください。まあ、古民家レストランは、諦めてもらうことになりますが。あなたにとってそう悪くない話なのでは?」
 秋江は頭の中で、せわしなくいろいろと計算しているようだ。しばらくして、言った。
「いいでしょう。あの家を貸しましょう。賃貸料をプールして、他の場所でレストランやるわ。あなたは、つまり…春奈のためにあの家を残しておきたいのね」
「ご理解いただいて恐縮です。それと、本当に古民家レストランをやりたいのであれば、経営コンサルタントを紹介しますよ」
 藤原は、微笑んで言った。
「結構です。…春奈、いい人つかまえたわね。離さないようにしなさいよ」
 秋江は、機嫌よく言った。叔母の気持ちをころりと変えるほど、藤原はとんでもない額の賃貸料を提案したのではないか。藤原が無理してないか、そこが春奈には心配だった。
 秋江は、話がまとまると、お茶もそこそこに、さっさと帰ってしまった。
「藤原さん、賃貸料って。すごい額なんじゃ…」
 秋江を見送って、春奈が言った。
「いや。うまいこと、交渉が成立したよ。もっとふっかけられると思ったんだが、割とすんなりいったな。俺としては、想定内だ」
「そんな…私、ちゃんとお金払います。と、言っても今はとても払えないけど…」
「春奈さんを焦らせる気持ちはないんだ。俺は、春奈さんの朝メシが食いたいし、春奈さんが描く絵も見たい。俺の希望を叶えたいだけだから、安いもんだよ」
 藤原はいらないと言うかもしれないが、絵で稼げるようになったら、お金はきちんと返していこう。…まだ、描けるかどうか、不安だけれど。
 今日は平日で、春奈のバイトを早引けして、藤原にも時間を作ってもらった。
「どう、荷造りは進んでる?」
 藤原はコーヒーを飲むと、言った。
 一週間後には、藤原の家に行くことになっている。その準備をしなくてはいけない。
「はあ…まあ、なんとか」
 春奈は、曖昧な返事しかできなかった。正直に言うと、まだ荷造りに手をつけていない。
「持ってくるのは少なくていいよ。足りないものは、買えばいいんだから」
「そ、そんな。藤原さんにばかりお金をかけさせすぎです。できるだけ、自分で何とかします」
「何、言ってるんだ。こういう時のために、俺は稼いでいるんだから。気軽に俺を利用してほしいね」
「は、はあ…」
 藤原は手にしていたカップのコーヒーを飲み干した。
「そろそろ、俺の会議の時間だな。そうそう、うちに持ってくる服なんかは少しでいい。パジャマくらいで」
「はい?」
 藤原が冗談を言ったのかな、と顔を綻ばせると、藤原が送るよ、と席を立った。

「いやいや、いきなり同棲って、ちょっとすごくない?」
「ど、同棲っていうか、同居だよ」
 春奈の家に、友恵が来ていた。藤原の家に行くのに何を持っていけばいいのか、さっぱりわからず、友恵にSOSを出したのだった。
 そのためには、藤原に倒れていたところを助けてもらったことや、だんだん親しくなり、
ラインのやりとりを始めたことなど、これまでのいきさつを話す必要があった。
「お昼休みに、スマホ見てるな、とは思ってたのよ。てっきり動物の動画でも見てるのかと思ってたら、ラブラブブランチの写真でしたか」
「ら、ラブラブって」
 春奈は、しどろもどどろになってしまう。絵のことを考えて、同居というか契約結婚にオーケーしてしまった。春奈が藤原のことを好きな気持ちは変わらないが、藤原が春奈をどう思っているかはわからない。
「ラブラブでしょうよ。春奈と一緒に暮らしたいってそういうことでしょ」
「そうかな、藤原さん、懐が深いから…面倒見がいいっていうか」
 春奈からすると、親切に料理や自転車を教えてもらった。その延長線上に、今度の同居もありそうな気がしてならない。
 春奈の絵や咳のことを聞いて、ほっとけなくなった、みたいなことではないのか。
 そこに春奈だから、という気持ちはどれくらい入っているのかわからない。
「そうかなあ。君の作った朝食を食べたい、なんてプロポーズと一緒だけどね」
「ぷ、ぷろ」
 彼氏がいたこともない、春奈にはそのワードは大きすぎる。契約結婚という言葉も出てきたけれど、あれは便宜上、春奈が藤原のところに居やすいように、言ってくれたのではないか。
「まだ、そんな間柄じゃ、ないから。これはお試し期間と思ってくれていい、って藤原さんも言ってたし。とにかく、絵が描けるようになるかの方が、大事なんだ」
 藤原の家に行っても、描けなかったら。その不安は、大きい。
 でも、やってみないと、ずっとこのまま、絵筆を握ることはできなくなってしまう。
「なるほどね…春奈、これはいらないわ」