「お願い?」
珍しいパターンなので、きょとんとしてしまう。
「…春奈さんの、絵を見せてほしい」
あ、と春奈は虚を突かれれた。いつか話さないと、と思っていた。でも、それが今日とは思っていなかった。
「どうして絵のことを」
かすれた声で、春奈が言うと、うん、と藤原が言った。
「この間、春奈さんを送った後、晃君と出会ってね。一緒に飲んで、いろいろ話をきかせてもらった。春奈さんが、すごい肖像画家だと知ったよ」
「そんなにすごくは…ない、です」
晃め、何を吹き込んだんだろう。今度、とっちめないと、と春奈は思った。
「結構オファーがあったときいてる。十分、すごいよ。人の心を動かす絵だってことだろう。ぜひ、見せてほしい。俺は」
藤原が、伏し目がちだった春奈の視線にぐっと標準を合わせた。目を射られて春奈は、次の言葉を待った。
「俺は、春奈さんのことがもっと知りたいんだ」
その言葉は、春奈の胸の奥に響いた。モテるから、とか人たらしだから、とか藤原のこ厚意をいろいろ理由付けしてきた。キスだって軽いあいさつくらいと思うように自分で仕向けた。
でも、今は。藤原の言葉を受け止めるべき、とはっきり思っている自分がいる。
藤原の言葉をごまかしたり、軽んじたりするのは、藤原に対して失礼だ。
春奈は、自分の気持ちをしゃんとさせて、椅子から立ち上がった。奥の部屋から、一枚の油絵を持ってくる。少し咳き込んだが、廊下で咳はとまった。
リビングに戻ってきた春奈は、テーブルに一枚の絵を置いた。
「今、手元に残ってる肖像画は、これだけなんです」
テーブルの半分を占めるくらいの大きさの絵だった。微笑んだ女性が描かれている。
「これは…宝月みずえだな」
藤原も、知っていたらしい。宝月みずえは、有名な映画女優だ。CMにもよく出るので、認知度も高い。
「すごいな…ただ似せてあるだけじゃなくて、宝月みずえの透明感とか、思慮深そうなところとか、きちんとにじみ出ている。確かにこれは…ファンからしたら、たまらないだろう。晃君からきいたんだが、君の肖像画をサイトにアップして、集客した、というのはこれのことかな」
「えっと…厳密には、宝月みずえのは、もう一枚あって、それをファンの方に買ってもらいました。これは、それを描く前に描いた、習作のようなものです」
「習作でこれなのか…すごいな」
藤原が心から感心していると、とれる声を出すので、春奈は嬉しかった。
でも…単純に喜ぶことは、できない。
「晃くんによると、今は描いてないらしいね。彼は、とても惜しがっていたよ」
「晃は…面白がって私に稼がせたいだけなんです」
春奈は、目を伏せて答えた。
「そうかな。これだけの才能を手放すのは確かに惜しいと思うけど…春奈さんは、描きたくないの?」
春奈は、顔を強張らせた。
いろんな感情がわきあがってくる。
どう説明したらいいだろう。この餓えた想いを。
何度も、何度もやろうとして、無理だった虚しさまで、伝えることができるだろうか。
「描き…たい…です…」
心の奥にしまった言葉を口で言うとは、こんなに重く、苦しいものだっただろうか。
口にした途端、熱いものがこみあげてきて、春奈は、目に涙をためた。
「描きたいけどっ…咳が、描きたいのにっ…」
藤原が近づいてきて、春奈の手を握った。温もりのある、大きな手だ。
「ごめん。言わせて悪かった。咳のことは、聞いているよ。…つらかったな」
藤原は、春奈を抱き寄せた。春奈は、藤原のシャツを濡らしてしまう、と思ったが、涙を止めることができなかった。
ずっと心の奥にしまいこんでいた事を吐き出せて、後から後から涙が出た。
しばらくして、春奈は、やっと泣き止むことができた。
テーブルに置いた絵を並んで見る形で、椅子に座った。
春奈は、ちゃんと言わなきゃ、と自分を鼓舞した。藤原さん、と口を開いた。
「咳は…罰、なんです」
「うん?」
「おばあちゃんが寝てたあの部屋で絵を描こうとすると、咳が出るようになった…それは、罰なんです。あの日、私が、おばあちゃんと散歩に行ったから」
藤原は神妙な顔をして、春奈が話すのを見つめている。
「あの日は、私、肖像画を描く仕事が、うまく進まなくて。息ぬきに、外に行こうかなってつい呟いたんです。そしたら、それをベッドの上で聞いていたおばあちゃんが、自分も行きたいって言って。外は秋から冬になる頃で、寒そうだったけど、すごい快晴だったんです。こんなに晴れてたらいいかな、って私、そう思って、おばあちゃんを車いすにのせて近くの広場まで散歩したんです。
柿の木に大きな実が実っていて、じっくりそれを眺めたりして。祖母も、ちょっと寒いけど、気持ちいいわねって嬉しそうで。私も塞いでた気持ちが晴れて、しばらくそこにいました。そしたら、おばあちゃんがくしゃみをして、いけない冷やしすぎた、と思って、慌てて家に帰りました。
その夜、おばあちゃんが微熱を出して。風邪をひくことは、これまでもあったから、週明けに病院に行こうね、って言ってたんです。そしたら、ものすごい寒波がきて。ちょっとした嵐みたいに二日くらい雪が降り続いてやっと雪がやんだ晩、おばあちゃんの熱があがって、咳き込むようになりました。
翌日、病院に連れて行ったら、レントゲンを撮られて、肺炎だって言われて…それから二週間後、おばあちゃんは、亡くなったんです」
藤原は、何かを言おうとしていた。それをせき止めるように、春奈は言った。
「私が、自分のことを優先して、外に行きたいなんて呟いたから。そんなこと言わなかったら、寒い日におばあちゃんを外に連出すこともなかったのに。風邪をひくこともなかったのに。ずっとそばにいたのに。なんでおばあちゃんのことを先に考えてやれなかったんだろうって…そう想い続けてたら、…私、絵を描こうとすると、咳が出るようになったんです」
顔をあげて、藤原を見る。
「自業自得、ですよね」
藤原は、ぐっと唇を結び、それから春奈の目をしっかりと見つめて、言った。
「春奈さん。俺が、絵を見せてほしいと言ったのは、興味本位じゃなくて、ひとつの提案があったから、なんだ」
春奈は、藤原の言う言葉の意味が、するりと入ってこず、ぼうっと藤原を見た。
「うちで、絵を描かないか」
「…え?」
「春奈さんが倒れて、一晩泊まった、俺の家だ。俺の曾祖父が絵に造詣が深かった話はしたよね。俺には、その才能は受け継がれなかったが、俺の兄は、違ったんだ。今は海外で画廊みたいなことをやってるけど、学生時代は絵をずっと描いてた。だから、うちには庭に増築したアトリエがあるんだ。春奈さん、そこで絵を、描けば、いい」
「藤原さんのおうちの…アトリエ…」
「そう。この家は、どうしたって、おばあ様との思い出がありすぎるだろう。ここで、絵を描くのはつらいはずだ。でも、場所が違うと、心や身体が違う反応をするかもしれない。
こういうのを、心理学で転地療養って言うんだ。やってみないか」
「絵が…また、描ける?」
「そうだ。君が、本心からしたいことを、したらいい」
「絵が…」
珍しいパターンなので、きょとんとしてしまう。
「…春奈さんの、絵を見せてほしい」
あ、と春奈は虚を突かれれた。いつか話さないと、と思っていた。でも、それが今日とは思っていなかった。
「どうして絵のことを」
かすれた声で、春奈が言うと、うん、と藤原が言った。
「この間、春奈さんを送った後、晃君と出会ってね。一緒に飲んで、いろいろ話をきかせてもらった。春奈さんが、すごい肖像画家だと知ったよ」
「そんなにすごくは…ない、です」
晃め、何を吹き込んだんだろう。今度、とっちめないと、と春奈は思った。
「結構オファーがあったときいてる。十分、すごいよ。人の心を動かす絵だってことだろう。ぜひ、見せてほしい。俺は」
藤原が、伏し目がちだった春奈の視線にぐっと標準を合わせた。目を射られて春奈は、次の言葉を待った。
「俺は、春奈さんのことがもっと知りたいんだ」
その言葉は、春奈の胸の奥に響いた。モテるから、とか人たらしだから、とか藤原のこ厚意をいろいろ理由付けしてきた。キスだって軽いあいさつくらいと思うように自分で仕向けた。
でも、今は。藤原の言葉を受け止めるべき、とはっきり思っている自分がいる。
藤原の言葉をごまかしたり、軽んじたりするのは、藤原に対して失礼だ。
春奈は、自分の気持ちをしゃんとさせて、椅子から立ち上がった。奥の部屋から、一枚の油絵を持ってくる。少し咳き込んだが、廊下で咳はとまった。
リビングに戻ってきた春奈は、テーブルに一枚の絵を置いた。
「今、手元に残ってる肖像画は、これだけなんです」
テーブルの半分を占めるくらいの大きさの絵だった。微笑んだ女性が描かれている。
「これは…宝月みずえだな」
藤原も、知っていたらしい。宝月みずえは、有名な映画女優だ。CMにもよく出るので、認知度も高い。
「すごいな…ただ似せてあるだけじゃなくて、宝月みずえの透明感とか、思慮深そうなところとか、きちんとにじみ出ている。確かにこれは…ファンからしたら、たまらないだろう。晃君からきいたんだが、君の肖像画をサイトにアップして、集客した、というのはこれのことかな」
「えっと…厳密には、宝月みずえのは、もう一枚あって、それをファンの方に買ってもらいました。これは、それを描く前に描いた、習作のようなものです」
「習作でこれなのか…すごいな」
藤原が心から感心していると、とれる声を出すので、春奈は嬉しかった。
でも…単純に喜ぶことは、できない。
「晃くんによると、今は描いてないらしいね。彼は、とても惜しがっていたよ」
「晃は…面白がって私に稼がせたいだけなんです」
春奈は、目を伏せて答えた。
「そうかな。これだけの才能を手放すのは確かに惜しいと思うけど…春奈さんは、描きたくないの?」
春奈は、顔を強張らせた。
いろんな感情がわきあがってくる。
どう説明したらいいだろう。この餓えた想いを。
何度も、何度もやろうとして、無理だった虚しさまで、伝えることができるだろうか。
「描き…たい…です…」
心の奥にしまった言葉を口で言うとは、こんなに重く、苦しいものだっただろうか。
口にした途端、熱いものがこみあげてきて、春奈は、目に涙をためた。
「描きたいけどっ…咳が、描きたいのにっ…」
藤原が近づいてきて、春奈の手を握った。温もりのある、大きな手だ。
「ごめん。言わせて悪かった。咳のことは、聞いているよ。…つらかったな」
藤原は、春奈を抱き寄せた。春奈は、藤原のシャツを濡らしてしまう、と思ったが、涙を止めることができなかった。
ずっと心の奥にしまいこんでいた事を吐き出せて、後から後から涙が出た。
しばらくして、春奈は、やっと泣き止むことができた。
テーブルに置いた絵を並んで見る形で、椅子に座った。
春奈は、ちゃんと言わなきゃ、と自分を鼓舞した。藤原さん、と口を開いた。
「咳は…罰、なんです」
「うん?」
「おばあちゃんが寝てたあの部屋で絵を描こうとすると、咳が出るようになった…それは、罰なんです。あの日、私が、おばあちゃんと散歩に行ったから」
藤原は神妙な顔をして、春奈が話すのを見つめている。
「あの日は、私、肖像画を描く仕事が、うまく進まなくて。息ぬきに、外に行こうかなってつい呟いたんです。そしたら、それをベッドの上で聞いていたおばあちゃんが、自分も行きたいって言って。外は秋から冬になる頃で、寒そうだったけど、すごい快晴だったんです。こんなに晴れてたらいいかな、って私、そう思って、おばあちゃんを車いすにのせて近くの広場まで散歩したんです。
柿の木に大きな実が実っていて、じっくりそれを眺めたりして。祖母も、ちょっと寒いけど、気持ちいいわねって嬉しそうで。私も塞いでた気持ちが晴れて、しばらくそこにいました。そしたら、おばあちゃんがくしゃみをして、いけない冷やしすぎた、と思って、慌てて家に帰りました。
その夜、おばあちゃんが微熱を出して。風邪をひくことは、これまでもあったから、週明けに病院に行こうね、って言ってたんです。そしたら、ものすごい寒波がきて。ちょっとした嵐みたいに二日くらい雪が降り続いてやっと雪がやんだ晩、おばあちゃんの熱があがって、咳き込むようになりました。
翌日、病院に連れて行ったら、レントゲンを撮られて、肺炎だって言われて…それから二週間後、おばあちゃんは、亡くなったんです」
藤原は、何かを言おうとしていた。それをせき止めるように、春奈は言った。
「私が、自分のことを優先して、外に行きたいなんて呟いたから。そんなこと言わなかったら、寒い日におばあちゃんを外に連出すこともなかったのに。風邪をひくこともなかったのに。ずっとそばにいたのに。なんでおばあちゃんのことを先に考えてやれなかったんだろうって…そう想い続けてたら、…私、絵を描こうとすると、咳が出るようになったんです」
顔をあげて、藤原を見る。
「自業自得、ですよね」
藤原は、ぐっと唇を結び、それから春奈の目をしっかりと見つめて、言った。
「春奈さん。俺が、絵を見せてほしいと言ったのは、興味本位じゃなくて、ひとつの提案があったから、なんだ」
春奈は、藤原の言う言葉の意味が、するりと入ってこず、ぼうっと藤原を見た。
「うちで、絵を描かないか」
「…え?」
「春奈さんが倒れて、一晩泊まった、俺の家だ。俺の曾祖父が絵に造詣が深かった話はしたよね。俺には、その才能は受け継がれなかったが、俺の兄は、違ったんだ。今は海外で画廊みたいなことをやってるけど、学生時代は絵をずっと描いてた。だから、うちには庭に増築したアトリエがあるんだ。春奈さん、そこで絵を、描けば、いい」
「藤原さんのおうちの…アトリエ…」
「そう。この家は、どうしたって、おばあ様との思い出がありすぎるだろう。ここで、絵を描くのはつらいはずだ。でも、場所が違うと、心や身体が違う反応をするかもしれない。
こういうのを、心理学で転地療養って言うんだ。やってみないか」
「絵が…また、描ける?」
「そうだ。君が、本心からしたいことを、したらいい」
「絵が…」



