御曹司の甘いささやきと、わたし

 春奈は、あの部屋に入ると、咳き込むようになった。コンコン、って咳がとまらなくなるんだ。病院に行って調べてもらっても、身体に咳の原因は見当たらない。心理的なものだってわかった。心因性咳嗽(がいそう)って言うらしい。
 それから、春奈は、絵が描けなくなった。

「描けないというのは…まるっきり?」
 居酒屋のにぎわいが少し落ち着いていた。晃の中ジョッキも残り少ない。
「ああ。描こうとすると、咳が出てダメなんだ。絵に関しては、ばあさんちの他の部屋で描いても無理だった。咳って体力使うからな。なかなか、あの姿はキツイ」
 ごく、とジョッキの中身を飲み干す。
 おれのも空だったので、ビールを追加注文する。
「俺の知る限りじゃ、春奈はこの半年、絵を描いてない。ばあさんちでぼんやりしてることが多かったんだが…なんでか、料理に目覚めたんだよな」
「うん?」
「とりつかれるようにやってて…まあ、春奈が何かにはまると、こうなるのは知ってたけど。でも、まあ、それは悪くなかった。ミネさんがいないと何もできないままだとこれから大変だしな。そうこうしてる内に、友達から誘われたかなんかで、データ入力のバイトも始めた。収入のことを考えたら、絵をやるほうが断然効率よく稼げるんだが…俺が、そう言ってもきかないしな」
「手前みそだが…料理のきっかけを作ったのは、俺だ」
 少々、言いづらいが、隠していても仕方がない。
「あ?」
 俺は、春奈が倒れたのを助けたいきさつを話した。そして、料理指南をしたことも。
 晃は、意外そうな顔をして、ビールを飲んだ。
「そういうことかよ…はあ、春奈のスイッチを入れたのは、あんただったんだな」
 改めて言われると、面はゆい。俺も、ビールを飲む。
「俺が今日、春奈の絵のことを話したのは、こっからが本題なんだ。お願いがある」
 神妙な顔をして、晃が俺の目をしっかり見た。
「あいつに、絵をやるようすすめて欲しい。絵を再開したら、描いてほしいと待ってるお客さんもいるんだ。あいつの才能を埋もれさせるのはもったいない。俺が言っても聞く耳もたねえけど…あんたが言ったら、違うだろ」
「君の方がつきあいが長いじゃないか」
 ふっと、晃は、唇をゆがめた。
「春奈が絵で稼いでた頃、ハッパかけすぎてね。俺は金の亡者みたいに見えるらしい。春奈を使って金儲けしたい、と思われてる。…実際そういう面もあったんでね。それは仕方ないんだ」
「そうか…」
 晃なりに心を砕いているだろうに、と不憫だった。というか、春奈も不器用だが、晃も不器用なのだろう。多分、口先で春奈をほめそやしたりして、描かせる、なんてことができないんだろう。つっけんどんに描け、と言っては煙たがられる感じだったんじゃ、と推測がついた。
 俺はジョッキをテーブルに置いて、言った。
「春奈さんが絵を描いても描かなくても俺はいいが…だが、本当は絵をやりたい気持ちが残ってたら、話は別だ。俺に考えがある」
「うん?」
 晃が片眉をあげた。
「転地療養だ」
 店の戸が開き、いらっしゃい、という店員の声が響いた。

【 春奈ターン 】
 いつもの朝食のラインの後に、藤原から、メッセージがあった。
『今日の夜、春奈さんのうちへ行きたい。美味いケーキ屋を見つけたから、一緒にケーキを食べないか』
 あのキスの晩から、一週間が経っていた。何度かやりとりをして、今日の21時に、うちに藤原が来ることになった。
 今日は、データ入力のバイトは休みだった。いい機会だ。うちの掃除、しよう。
 ミネさんがあらかた掃除はしてくれるので、大してしなくてもいいのだけれど、やっぱり藤原が来るのなら、綺麗にしておきたい。
 春奈は、身体を伸ばして、軽くストレッチをしてから、掃除を始めた。
 やるとなったらとことんの春奈は、ほとんど大掃除っぽくなってしまった。夕方に、やっと終わって、休んだら、酒のつまみを作ることにする。
 スペイン料理を食べに行った時、藤原が酒好きなのを知った。ミネさんからも、いくつかつまみのレシピも教えてもらったので、それを作ることにする。
 作りながら、あの晩のキスを思いだす。正直言ってファーストキスだ。思い出すだけで、頬がかあっと赤くなる。
 どういう意味のキス、なんだろう…。
 藤原はあの時、「抑えきれなくなった」と言った。それがよくわからない。藤原みたいな人が、劣情にかられて、ついキスした、なんてあるんだろうか。
 いや、藤原はモテてきたはずだ。春奈には想像もつかないような恋愛遍歴があって、キスだって藤原からしたら大したことないのかもしれない。お別れの挨拶、くらいの。
 でも…熱い、キスだったな。あっという間、だったけど。
 そして、その後、ぎゅっと抱きしめられて。キスの間は驚くばかりだったけれど、抱きしめられてからは、少し正気に戻って、ぎゅっとされるのいいな、と思った。 
 藤原さんに抱きしめられた…嬉しい…
 じんわりと、気持ちがせりあがってきて、また頬が熱くなる。
 でも、どんなつもりかわからないしな。だけど嬉しかった、それでいいや。
 春奈なりに割り切ってみるが、それでも胸の奥はとくとくと、ときめいている。
 毎日の朝食リレーは続いていて、バイト先でも、よく藤原からのラインを見返していた。いつのまにか、藤原のことを考えない日がなくなっている。
 こんなに、誰かを想うということも、春奈には初体験だ。中学高校と、特に好きな人はいなかったし、晃は憎まれ口を叩くばかりで、恋愛対象じゃなかった。
 よくわからないけど…恋するって、こんな感じ?
 自問しながら、おつまみを作っていく。藤原の朝食リレーを頑張るためにも、ミネさんにレシピを教わったり、スマホで料理の研究をしたりしていた。
「このおつまみ…気に入ってくれるといいけど」
 三品くらいできたところで、藤原を待つ。夕方、スーパーへ行って、ビールも買っておいた。
 時間より少し遅れて藤原はやって来た。今日もスーツをさらっと着こなしている。仕事帰りで疲れているのでは、と思ったが、パリ仕込みのシェフのもので、とケーキの説明をする時は、いつものように快活だった。
 藤原にダイニングテーブルについてもらう。
 紅茶と一緒にいただいた藤原のケーキは美しいだけでなく、すごく美味しくて、春奈も「美味しい」と感嘆の声をあげた。
 お互いの近況などをぽつぽつ語り、ケーキを食べ終えた。ちょっとしたことで、くすくす笑いあい、気持ちがゆるんだのか、藤原は上着を脱いだ。
 シャツ姿の藤原も、新鮮で恰好いい。紅茶のカップを持つ指が綺麗なことに、今気づいた。きっとまだ知らないことがたくさんあるんだろうな、と春奈は思った。
「藤原さん、お酒、飲まれますか。ビールがあります。甘いものの後ですけど」
「ああ。うん、もらうよ」
 春奈は、おつまみと冷えたビールを、藤原に出した。藤原は、美味しそうに、ビールを飲んだ。春奈は、紅茶のおかわりをした。お酒を飲むと眠くなってしまうのだ。大事な藤原との時間、しゃんとした頭で過ごしたかった。
 つまみも美味しい、と藤原が言ってくれて、春奈はほっとした。その後、藤原が改まった声を出した。
「春奈さんにお願いがあるんだけど…」