御曹司の甘いささやきと、わたし

 俺は、もっと春奈のことが知りたくなり、自分からラインのやりとりをする提案をした。こんなことは初めてだった。これまでは近づいてきた女子に寄り切られて、ラインを教えることが多かったので、えらい違いだ。
 そして、朝食の写真を送りあうようになった。社長業の忙しい俺は、朝の時間くらいしかラインの相手ができないが、それでも自分的には十分だった。
 それに春奈は、俺にしつこくラインしてくることもなかった。いつの時間も関係なくラインしてくる女性に辟易したことがある俺としては、助かった。
 こんな風に、何から何まで、春奈は、俺にとって好感触だった。
 時間をやりくりして、夜の時間を空けた。深夜まで残業したり、一晩で何度も会食したりせねばならなかったが、春奈に会えると思えばなんてことなかった。
 春奈は、連れて行ったスペイン料理の店で、嬉しそうに過ごしていた。きけば、祖母の看病に明け暮れていたせいで、外食というのをここ数年ほぼしていなかったと言う。
 毎晩、漁るように食事会やイベントをこなしている女騎士たちとは、ここも違った。
 なんだかいじらしくなり、料理を追加し、ワインをついでやった。
「すぐに酔っちゃいそうです。昨日、眠れなかったから」
「え、なんで」
「だって、藤原さんと会うと思うと緊張しちゃって…」
 俺は、胸に矢が刺さったのを感じた。ストライクど真ん中、だった。
 彼女を俺のものにしたい。そうするにはどうすればいいのか。自問したところで事件は起きた。
「あれ?春奈さんじゃない?」
 俺以外の男の声で、春奈の名を呼ぶのに、まずイラっとし、見るといつぞやホテルで春奈と会っていた男だった。
 確か、見合いした、と言っていたはずだ。
「広野さん、どうして」
 春奈が不思議そうに顔をあげると、
「ここ、会社の近くなんだ。偶然だね。あ、ラインしようと思ってたんだけど、明後日、時間ない?子猫に会わせるよ」
「こねこ?」
 春奈の声のトーンが変わった。俺の中で、またイラっとした。そんな声、他の男に出すな。
「うん。友達のとこで生まれて、最近、飼い始めたんだ。手のひらに乗るくらいなの。可愛いよ」
「てのひら…」
 春奈の心が持っていかれている。今日の食事中も、動物好きだと話していた。春奈は、明後日は金曜日、と呟くと、広野という男に言った。
「すみません、広野さん。私、その日、バイトで」
「そうなんだ。僕、最近、休みとれなくて、その日以外あいてないんだよね。残念。また
連絡するね」
 広野があまりしつこくなかったので、俺の溜飲は下がった。大体俺という連れがいるというのに、堂々と話しかけてくるなんて、大した度胸だ。
「あ、すみません。お邪魔して」
 広野は、やっと俺の存在に気づいたかのように言った。
「いえ」
 俺は、にこやかに言った。こういうところで余裕を見せないといけない。春奈さん、それじゃ、と広野は自分の席に行った。
「すみませんでした、話し込んで」
 春奈は、小さく頭を下げて言った。
「いや…君が、そんなに喜ぶんなら、俺は子犬を持ってこようかな」
「こいぬ」
 春奈は、これまでで、一番、目をキラキラさせた。こんなにツボなのか。彼女の豹変ぶりが面白くて、思わず吹き出してしまった。藤原さん、そんなに笑わないでください、とふくれる春奈も可愛かった。
 やっぱり、この子が好きだ。
 
 食事を終えて、彼女を家まで送った。車で彼女のうちに到着し、ほんの数歩だが暗がりを一人で歩かせたくなくて、車から降りる。彼女が家の鍵を開けるのを、背後から見守る。
 そうしたら、ぶわっと彼女を抱きしめたい気持ちがわいた。華奢な手首、白い首、しなやかな背中。独り占めにしたい。
「春奈」
 上ずった声が出て、振り返った春奈を抱きしめていた。ぎゅっと腕に力を入れる。春奈の身体が逃げていないのが、何よりも嬉しかった。
「ごめん。抑えきれなかった」
 ふじわらさ、と言いかけた春奈の唇を自分の唇で塞いだ。想像どおり、春奈の唇は甘くやわらかで、いつまでもキスしていたかった。
 だが、ここで深追いしてはいけない、と自分を戒めた。勢いで抱いてしまような、そんな扱いを春奈にしたくなかった。
 唇を離し、春奈の頭を胸に抱える。
 くぐもった声で、春奈は言った。
「ひざががくがくしています…」
 いとおしくなって、またぎゅっと抱きしめる。しばらくそうして、やっと身体を離した。
 春奈が、玄関のドアを閉めるのを見送って、俺は車に乗ろうとした。
 キスの余韻が醒めていなかった。
「おっさん、あんた春奈の何なんだよ」
 薄いピンクの靄を一気に暗闇にするような、男の声。
 振り返ると、二十代くらいの青年が俺をにらみつけていた。
「交際しようとしているんだが、君は?」
 無粋な真似をされて、声に不機嫌さが混じる。青年は、俺に動じず、きっぱりと言った。
「春奈の、絵のこととか、知ってんの?」
 絵?美術館に行くのが趣味と言っていたが、そのことだろうか。青年は、はっ、と息を吐いた。
「知らないんだな。教えてやるから。ちょっとつきあってよ」
 青年は、俺に背を向けて歩き出した。