御曹司の甘いささやきと、わたし

 祖母が亡くなって半月が経った頃、この部屋で仕事をしようとすると、咳が出るようになった。今でも、こんな風に、この部屋にいようとすると、咳が出る。
 この部屋を出ると咳は止まるのだが、ミネが心配するので、病院で調べてもらった。身体に咳の原因となるものは見つからなかった。心因性のものでしょうね、と診断された。
 そのため、滅多にこの部屋には来ないようにしているのだが、今日は久しぶりに来たら、やはり咳爆弾にあった。
 春奈は、仕方なく部屋を出て、咳がおさまるのを待った。
 なんとか落ち着くと、壁に背をあずけ、床にぺたん、と座り込んだ。
 咳はするだけで体力を消耗する。
 自分の膝に額を乗せ、おばあちゃん、と呟く。もういないのはわかっているけれど。

 翌日、春奈を目覚めさせたのは、スマホの通知音だった。
 時計を見ると七時だった。春奈は、七時半に、起きるよう目覚ましをセットしていた。 誰だろう…と訝しがる。友恵は、朝が弱いので、こんな時間にラインしてこない。
 スマホにタッチすると、藤原のアイコンが目に入った。
 春奈は、がばっと起き上がった。なんだか寝起きを覗かれた気になり、慌てて髪の毛の乱れをなおした。
 スマホのラインには、『おはうよう。俺の朝食はコレ』というメッセージと、写真も送られていた。
 写真に写っていたのは、目玉焼きが乗ったどんぶりだった。御飯が大盛りになっていて、目玉焼きにはちょっとだけ醤油がたらしてあった。卵の黄身は半熟でピンク色だ。
「男子メシ…」
 春奈は、ふっと笑った。
『おはようございます。美味しそうですね』
と、返信すると、ばたばたと洗面所へ駆け込み、身づくろいをした。
 そのままキッチンへダッシュして、最近、はまっているホットサンドを作り始める。子供の頃、よくミネが作ってくれたのだ。ホットサンドメーカーを棚の奥に見つけて以来、いろんなものをパンにはさんで焼いている。今日は、藤原の目玉焼き丼を見た後だったので、つられて卵サンドにすることにする。
 焼いているうちにサラダを作った。こんがり焼きあがった卵サンドを二つに切って、サラダと共に写真を撮る。
 藤原に、送る。
『うちの朝食は、コレです』
 すぐに返信が来た。
『やられた。うまそう』
 読んで、春奈は、にやりとした。してやったりだ。

【 藤原ターン 】
 スマホの画面に、春奈からの朝食の写真が増えていく。仕事と仕事の間の、ほんの数分の間に、それを見返すと、なんとなく、心がほぐれる。
 料理好き女子の、いかにも映えを狙った写真と違って、頑張って挑戦してみましたという気持ちがこっちに伝わってくる写真が多いからだろう。
 最初に倒れていたのを助けた時は、時間があったのと、純粋な人助けの気持ちからだった。いや、最初バスの案内をしてくれた時から、「横顔の綺麗な子だな」くらいは思っていた。でもそれくらいで、まさかこんなにラインを何度も見てしまうほど、彼女にのめりこむとは思っていなかった。
 単純に、会ったことのないタイプだった。俺に向ってくる女性は、美貌とキャリアを積んだ女騎士みたいな強者が多い。そして、俺の財産や、外見がまず重要なのだという匂いがふんだんにする。
 その点、春奈は違った。
 普通のOLなのかと思ったら、半年前まで、祖母の看病につきっきりだったという。見た目のおっとりのんびりした感じとは違って苦労したようだ。
 ところが、その割には、料理ができないという。そのアンバランスさが面白くて、つついてみたくなり、料理指南を買って出た。
 簡単な焼きそばの作り方を教えただけだったが、春奈は筋がよかった。ほとんど触ったことがないと言っていた包丁も、手先が器用なのか、すぐに扱えるようになった。
 次にああして、こうして、というと、やることによどみがない。地頭がいいのだろう、言われたことに対する反応が早く、ぐいぐい吸収する。
 ほんの十五分程度の時間だったが、彼女が賢いのはよくわかった。だが、それを件の女騎士たちのように鼻にかけていない。無自覚なのだ。
 聡明というのは、こういうことを言うんじゃないか、と感心していたら、仕事の電話が入った。このまま春奈との時間を過ごしてみたかったが、仕方がない。社長業とはそういうものだ。
 着て帰る服がない、というので、以前ルリさんが着ていた白のワンピースを貸した。
 照れくさそうに、その服を着てきた春奈は綺麗だった。ずいぶん久しぶりにときめく、という気持ちを感じた。
 心が動いた時には、行動に移す、が信条の俺は、彼女に自分のスマホの番号を教えた。
 春奈は戸惑っていたが、嫌そうではなかった。
 正直、自分から誘って、乗ってこない女子などこれまでいなかったので、春奈から連絡が来る自信は、あった。
 ところが、連絡はないまま、一か月経ってしまった。社長だと名乗らなかったからだろうか、などとつまらない憶測までして、俺はじりじりと春奈からの連絡を待っていた。
 連絡がないまま、春奈と再会したのは、ホテルのロビーでだった。
 春奈は、ラベンダー色のワンピースを着て、めかしこんでいて、しかも男連れだった。
 なんだ、男がいたのか。
 そうまっさきに感じた。春奈には男がいないと思い込んでいた。祖母の看病に明け暮れて、男と会ったりしていない、と。なんだか自分の思いを汚された気がして、春奈につっけんどんな態度をとってしまった。
 そんな幼稚な自分も嫌で、この件はさっさと忘れようと足早に歩いていたら、春奈が俺を追いかけてきて、転んだ。
 必死な様子に、ほだされて、話をきくと、「うちにきませんか」と言う。スマホに連絡もしてこなかったのに、どういう展開だ。
 不思議に思いながら、彼女の家のリビングのソファに座っていると、目の前にいくつも料理の皿が並んだ。
 なんと、一か月の間に、料理にはまり、作り置きまでするレベルになったという。賢いとは思っていたが、これには実際、感動した。それを口にすると、春奈は花が綻ぶように喜んだ。何度も俺に連絡しようとしたが、勇気が出せなかったと、いじらしいことまで言う。
 可愛いじゃないか。
 俺は、本格的に彼女に惚れていることに気づいた。もっと彼女に何かしてやりたい。ちょうど、その日は時間があった。普段は、仕事に追われている生活だから、ちょっとした奇跡だった。
 俺は、彼女に自転車の乗り方を教えてやることにした。自転車もかなりいいクラスのものを買ってやった。春奈のためなら、まったく惜しくなかった。
 予想どおり、春奈の飲み込みはよかった。子供のころできなくても、大人になるとできるようになることは、よくあることだ。
 一時間もすると、乗れるようになり、春奈は、すっかり上機嫌になっていた。こんなに喜んでもらえると、教えた甲斐があったというものだ。
 春奈は、俺をテレビで見たらしく、車椅子の会社の社長だと思っていたという。だからと言って、何かをねだることもなかった。芯から自転車に乗れたのが嬉しそうだった。
 やはり、純粋な子だな、と自分の見立てに狂いはなかったと確信した。