御曹司の甘いささやきと、わたし

「うん。曾祖父はなかなかの目利きで、コレクションに一目おかれていてね。パリの博覧会なんかに出展したこともあったそうだ」
「す、すごいお話ですね…世界が違うというか…」
「まあ、その話を聞いた時は、驚いたけどな。まあそのおかげで、絵に触れることが子供の時からできたわけで、感謝しているよ」
「そうなんですね…藤原さんは、自分では絵は描かれないのですか?それだけお好きだったら描きたくなるんじゃ」
「いや、描くのは全然だな。そっちの才能はなかったみたいだ。君は?絵を描くの?」
「え、あの…」
 春奈が言いかけた瞬間、ちょうど春奈の家の前に来た。車を止め、自転車をおろし、春奈の家の玄関脇に置いた。自転車専門店で買ったチェーンも藤原が取り付けてくれた。
「これで、よし。楽しい自転車ライフを。転ばないよう、気をつけるんだぞ」
「膝にサポーターでもつけようかな…」
 真面目な顔で春奈が言うと、それがいい、と藤原は笑った。
「今日もいろいろ、ありがとうございました。藤原さんのおかげで、また世界が広がりそうです」
 前回は料理で、今回は自転車。日常が大きく変化していくことに深く感謝する気持ちになった。
 藤原は、ふと、それに何も言わず春奈を見つめた。いつものように気さくな返事が返ってくると思っていたので、春奈は戸惑った。
 なんか私、変なこと、言った…?
「春奈さん」
 藤原の声が改まっている。
「今度、近いうちに食事にでも行かないか。君の見合い話がまとまる前に」
「え…」
 思いがけないお誘いに春奈は驚いた。
「俺とは嫌かな。今日の見合い相手と会うのに忙しいかもしれないが。俺とも連絡先を交換してほしい」
 春奈は、信じられない気持ちで、その言葉を聞いていた。自分とは世界の違うところにいる藤原が、何故自分を誘うんだろう、と不思議に思ってしまう。
 でも、そう言われたら嬉しいのは抑えきれなかった。慌ててバッグからスマホを取り出す。お互いに操作して、ラインができるようになった。藤原は言った。
「仕事をしてると言ってたな。バイト終わりは何時?」
「18時です」
「わかった。また連絡する。じゃあ」
「はい。あ、あの…お誘い、待ってます」
 春奈は顔がかあっと赤くなるのを自覚しながら、やっとそれだけ言った。
 藤原はふっと笑って車に乗り込んだ。
 遠ざかって行く車を見つめながら、春奈は「嘘…」と、つぶやかずにはいられなかった。
 玄関先の自転車の前にしゃがみ込み、自分の胸の内がドキドキいっているのに気づく。
 逢いたかった藤原に、料理を褒めてもらって、自転車を教えてもらえた。それだけでも今日は百点満点だったのだ。それが、最後に、また逢えることになった。
 すごい…なんか、嬉しすぎる…!
 気持ちをかみしめながら、自転車のサドルを撫でていると、背後に気配がした。
「春奈、何やってんだよ」
 隣の幼馴染、晃だった。カジュアルな服装で、コンビニ袋を持っている。家族に買い物でも頼まれたのかもしれない。
「その自転車、どうしたんだよ」
「もらった。乗れるようになった」
「誰に。どうして」
 晃が、大きく目を見開く、信じられない、という顔をする。
「…内緒だよ」
「まさか、見合い相手に買ってもらったのか」
「何、それ」
「昼間、ミネさんにばったり会って、きいたんだ。今日、見合いだって」
「見合い相手じゃ、ない」
 藤原のことを晃に伝える気にはならなかった。どうせ、お前はだまされてる、とか言うに決まっているのだ。
「何なんだよ…自転車もいいけど、転ばないようにしろよ。手を怪我したらあっちの仕事できなくなるぞ」
「…大丈夫、だよ」
 晃から目をそらして返事をした。
「データ入力のバイトもやってるんだろ。何、考えてるんだよ。大体お前は」
「晃のお説教はききません」
 春奈は、自転車から手を離し、玄関のドアの鍵を開け、中に入ってしまう。ドアを閉めても、晃が何か言っている気配がしたが、構わず、靴を脱いでうちにあがった。
 晃に言われたからなのか、自分でも判別がつかなかったが、春奈は、リビングを素通りして、奥の部屋へ行った。
 ここは、春奈の祖母が寝たきりになって過ごしていた部屋だ。窓際にベットがあり、窓の向こうの庭が一番よく見える。四季折々の植物の変化がわかるので、この部屋がいい、と祖母が希望したのだ。
 祖母は、春奈が高校三年生の秋に、庭に咲いていた花をとろうとして、足をすべらせ転倒した。その時に立ち上がれなくなり、救急車で病院へ運ばれた。診断の結果、脊髄を損傷していたことがわかった。
 脊髄損傷は、下半身麻痺を引き起こした。祖母はベッドから動けない体になってしまった。春奈は、大学に推薦入学が決まっていたが、祖母の病状から、通学を諦めた。担任の教師と相談し、通信制の大学で勉強することに決め、春奈は自宅で祖母の世話をすることにした。
 小学四年生の春奈が、交通事故で両親を失ったときから、祖母は春奈の面倒をみてくれた。祖母は当時もう祖父を見送っており、華道教室を自宅でしながら生計を立てていた。
 家事は家政婦のミネがして、祖母が稼ぐ。春奈は、快活に働く祖母の背中を見ながら、学校に行かせてもらった。祖母は春奈を可愛がってくれ、春奈に不自由をさせなかった。習い事さえさせてくれた。
 その祖母が、寝たきりになった。春奈は、祖母の看病をするのに、迷いはなかった。
 おばあちゃんが、してくれた恩返しをするなら今だ。
 そう思った。ミネも祖母もそこまでしなくても、と春奈に言ったが、春奈はきかなかった。
 実際、ミネ一人では、祖母の看病は無理だった。祖母の体を動かし、オムツを替え、着替えをさせるだけでも、体力が必要だった。春奈は通いのヘルパーから、下半身麻痺の人間をどう動かせばいいか、やり方を習った。春奈はいっけん、のんびりしているようで、学習能力は高い。コツをすぐつかみ、祖母を自宅で看れるようになった。
 春奈は、朝、ミネの作った朝食を食べると、祖母の部屋に行った。祖母の下の世話をし、し、食事を手伝った。祖母が落ち着くと、春奈は、ベットの脇の小さな机で、大学の課題をした。午後からは、仕事をした。
 そんな生活を三年間繰り返し、四年目の秋に、祖母は亡くなった。風邪をこじらせての肺炎だった。
 春奈は、祖母がいなくなったベットを見るだけで、胸が苦しくなる。
 一年前。今と同じ五月だったろうか。ずっと寝たきりはつまらないので、気候のいい日は、祖母を車いすに乗せて、家から少し離れた公園に行ったりした。花壇はポピーやカーネーションが咲きみだれ、華道をやるくらい花が好きだった祖母は、とても喜んだ。
『春奈、ほら、よく見て。花がいきいきしてる。なんて上等なんでしょうねえ』
 祖母は、上等、という言葉が好きだった。
 春奈がよそ行きの服を着ると、必ず『上等ねえ』と、褒めてくれた。
「おばあちゃん…」
 普段は、だいぶ思いださないようになってきたが、この部屋に来ると、祖母の顔を鮮明に思いだしてしまう。目にじわりと涙がにじんでくる。
 そして。
 春奈は体をくの字に曲げ、咳こんだ。
 こほんこほんこほん…
 咳は、止まらない。