春奈の髪の毛にあった糸クズをとり、藤原は、体勢を元にもどした。
「私…藤原さんだから、うちに呼んだんです。他の人は、うちにあげるつもりありません」
春奈は、まっすぐに藤原を見た。言いたいことが言えた、と胸の内が高揚する。
「ふうん」
藤原は、またお茶を飲んで、テーブルに置いた。
「見合い相手とはいい仲じゃないと言ったな。じゃあ、俺が誘っても、問題ないか」
「は、はい」
誘う、という単語に、胸がどきん、と震える。
「この間、言ったこと覚えてないか。俺は夜まで時間がある。行こうか」
この間って…?
藤原の車に乗って、連れて行かれたのは、自転車専門店だった。
「藤原社長じゃないですか」
驚いた顔をして、店の店長らしき男性が言った。
「近くまで来たんでね。うちのシリーズ、ここ揃ってただろう」
「もちろんですよ。人気商品ですから」
じゃあ、見せてくれ、と言われた店長は店の中央に藤原と春奈を案内した。
「この中から好きなのを選ぶといい。今日の美味いメシの御礼にプレゼントするよ」
「えっ!だ、だって…私、自転車、乗れません」
「だから、練習するために買うんだ。この間、教えたくなったと言ったろう」
そう言えばそうだった。自転車を教えてもらうためにまた会えないだろうか、と春奈だって思ったのだ。
春奈は恐縮したが、いろいろすすめられる内に、本当に自転車に乗りたくなってきて、
結局、赤いサドルの自転車を買ってもらった。
店長が顔を綻ばせて、車に自転車を積むのを手伝ってくれた。
しばらく車を走らせて公園に到着した。専用駐車場に車を止めて、自転車は公園の広場に着くまで藤原が押してくれた。
「さて、乗ってみるか」
春奈は家から出る際に動きやすい恰好を、と言われシャツとデニムに着替えていた。
「すごい…ドキドキしてます」
自転車を買ってもらった高揚感はあったが、やはり幼いころのトラウマで、いざ乗るとなると、はでに転んで擦り傷だらけになったことを思いだしてしまう。
「だいじょうぶ。俺がうしろを押さえていてやるから」
そう言って、たしかに藤原は、しっかり自転車を支えてくれている。
春奈は、えいっと勇気を出して、サドルにまたがった。ペダルに足を置きながらも、ドキドキは止まらない。
「よし、こいでみて」
おそるおそる、春奈はペダルを踏んだ。体がよろけそうになって、何度もペダルから足をおろし、地面に足をついてしまう。
「慌てないで。ゆっくりでいいから」
春奈はぎこちなく頷き、ペダルを交互に踏むことができた。自転車がわずかに前進する。
「そうだ。自転車はこいでたら倒れない。それをイメージして」
こいでたら…こげば、いいんだ。
体と、自転車がうまくピントが合ったような感覚がした。それでもまだ怖い。
「藤原さん、押さえててくださいねっ」
自転車は前進していく。自分が漕いでるからだ、と思うと怖い気持ちの中に嬉しさがまじってきた。
「ほら、乗れた」
自転車の真横に藤原が立っている。ということは、藤原は押さえてない!
急に怖くなって、よろける。
そこを藤原が、さっとハンドルをつかんで、立たせてくれた。
「もう、乗れるようになるよ」
藤原は微笑んだ。そして、その言葉どおり、一時間後には、藤原が手をかさなくても、春奈は、自転車に乗れるようになった。
「すごい…乗れた。乗れました、藤原さん!」
「そうだろう。子どもの頃できなくても、大人になったらできることだってある。自転車屋の俺としては、自転車に毎日乗って、可愛がってほしいね。さて、帰るか」
春奈は、自転車を降りた。車のある駐車場まで自転車を押していく。藤原が押そうとしたが、春奈がこれも練習ですから、と断って、押していった。
その道すがら、春奈はきいた。
「えっと…自転車屋って、藤原さん、車いすの会社の方、ですよね」
「うん?」
藤原が意外そうな顔をするので、春奈は説明した。
「あの、テレビで観ました。車いすのことをお話してありました」
「あー、あれか。広報担当が変わってから、何かと駆り出されるようになったんだよなあ。最近、まったく知らない人からも声をかけられたりして、困ってる」
春奈は、きっと女性からも声がかかるだろう、と思った。こんな美形をみんな放っておくはずない。
「車いす事業はうちの会社の一部で、大元は自転車メーカーなんだ。一応、代表取締役だ」
「そうだったんですか…」
簡単に自転車メーカーというが、きっと大手なのだろう。ネットの記事の扱われ方でわかる。
「だから、自転車に乗れない、なんて言うと、うずうずしてな。自転車で世界を広がるあの感じを知ってほしくて、つい今日みたいなことになる」
「ありがとうございます。本当に、まさか自分が自転車に乗れるようになるなんて、思いませんでした」
全くできないと思っていたことができた喜び。単純に嬉しくて、心が踊っている。
「これから、バスで行っていたところに、自転車で行けるよ。まあ、最初っから無理はいけないが、ちょっとずつ距離を伸ばしたらいい」
「はいっ」
ちょっと遠かった本屋さんや、野菜の安いスーパー、日曜日の公園、図書館や美術館。いっきに距離が近くなった気がする。
「藤原さんといると、できないことができるようになるみたい。お料理に自転車…藤原さんは、教えるのが上手いんですね」
「そうかな。まあ、子どもの頃は、教師になるのもいいな、と思ってた」
「それも似合いそうです」
子供たちに囲まれて、慕われる藤原の姿が容易に想像できた。さらに、合点がいったことがもう一つ。
藤原が連絡先を書いたメモをくれたのは…自転車を教えたかったからなのだ。さっき言っていたように、自転車に乗れない人を見つけたら、教えたくて仕方ながないのだ。
自転車の大手メーカー社長だというのに、きっと誰にでもそうなんだろう。藤原の懐の深さというか器の大きさを、改めて感じた。
自転車を車に積んで、春奈のうちまで送り届けることになった。春奈が御礼を言っていると、ちょうど車が西橋美術館の近くにさしかかった。
「そういえば。君、この間ここの美術館の出口で倒れたんだったな」
「その説は、ありがとうございました」
思わずお辞儀してしまう。
「いや…絵が好きなのかな、と思って。空腹をこらえてでも行きたかったんだろう?」
「はい。あまり家から出るタイプではないんですが美術館に行くのだけは、好きなんです。一番好きな美術館は倉敷の大原美術館です。
藤原さんも、美術館、お好きなんですか?」
「うん。綺麗なものを見るのは全般的に好きだけれど、やっぱり絵はいいね。うちには画集がたくさんあったから、子供の頃から慣れ親しんできたよ。そして、生の絵を美術館で見るとまた違った趣きがあって。時間があったら行くようにしている」
「生の絵…確かにそうですね」
「うん。でも、まあ、絵が好きなのは、遺伝かもしれない。俺の曾祖父…うちの会社の創業者なんだが、ものすごい美術コレクターでね。私財を随分つぎこんで、西橋美術館の大元を創ったんだ」
「えっ。そうなんですか?」
急に壮大な展開になってきて、春奈は目を見張った。
「私…藤原さんだから、うちに呼んだんです。他の人は、うちにあげるつもりありません」
春奈は、まっすぐに藤原を見た。言いたいことが言えた、と胸の内が高揚する。
「ふうん」
藤原は、またお茶を飲んで、テーブルに置いた。
「見合い相手とはいい仲じゃないと言ったな。じゃあ、俺が誘っても、問題ないか」
「は、はい」
誘う、という単語に、胸がどきん、と震える。
「この間、言ったこと覚えてないか。俺は夜まで時間がある。行こうか」
この間って…?
藤原の車に乗って、連れて行かれたのは、自転車専門店だった。
「藤原社長じゃないですか」
驚いた顔をして、店の店長らしき男性が言った。
「近くまで来たんでね。うちのシリーズ、ここ揃ってただろう」
「もちろんですよ。人気商品ですから」
じゃあ、見せてくれ、と言われた店長は店の中央に藤原と春奈を案内した。
「この中から好きなのを選ぶといい。今日の美味いメシの御礼にプレゼントするよ」
「えっ!だ、だって…私、自転車、乗れません」
「だから、練習するために買うんだ。この間、教えたくなったと言ったろう」
そう言えばそうだった。自転車を教えてもらうためにまた会えないだろうか、と春奈だって思ったのだ。
春奈は恐縮したが、いろいろすすめられる内に、本当に自転車に乗りたくなってきて、
結局、赤いサドルの自転車を買ってもらった。
店長が顔を綻ばせて、車に自転車を積むのを手伝ってくれた。
しばらく車を走らせて公園に到着した。専用駐車場に車を止めて、自転車は公園の広場に着くまで藤原が押してくれた。
「さて、乗ってみるか」
春奈は家から出る際に動きやすい恰好を、と言われシャツとデニムに着替えていた。
「すごい…ドキドキしてます」
自転車を買ってもらった高揚感はあったが、やはり幼いころのトラウマで、いざ乗るとなると、はでに転んで擦り傷だらけになったことを思いだしてしまう。
「だいじょうぶ。俺がうしろを押さえていてやるから」
そう言って、たしかに藤原は、しっかり自転車を支えてくれている。
春奈は、えいっと勇気を出して、サドルにまたがった。ペダルに足を置きながらも、ドキドキは止まらない。
「よし、こいでみて」
おそるおそる、春奈はペダルを踏んだ。体がよろけそうになって、何度もペダルから足をおろし、地面に足をついてしまう。
「慌てないで。ゆっくりでいいから」
春奈はぎこちなく頷き、ペダルを交互に踏むことができた。自転車がわずかに前進する。
「そうだ。自転車はこいでたら倒れない。それをイメージして」
こいでたら…こげば、いいんだ。
体と、自転車がうまくピントが合ったような感覚がした。それでもまだ怖い。
「藤原さん、押さえててくださいねっ」
自転車は前進していく。自分が漕いでるからだ、と思うと怖い気持ちの中に嬉しさがまじってきた。
「ほら、乗れた」
自転車の真横に藤原が立っている。ということは、藤原は押さえてない!
急に怖くなって、よろける。
そこを藤原が、さっとハンドルをつかんで、立たせてくれた。
「もう、乗れるようになるよ」
藤原は微笑んだ。そして、その言葉どおり、一時間後には、藤原が手をかさなくても、春奈は、自転車に乗れるようになった。
「すごい…乗れた。乗れました、藤原さん!」
「そうだろう。子どもの頃できなくても、大人になったらできることだってある。自転車屋の俺としては、自転車に毎日乗って、可愛がってほしいね。さて、帰るか」
春奈は、自転車を降りた。車のある駐車場まで自転車を押していく。藤原が押そうとしたが、春奈がこれも練習ですから、と断って、押していった。
その道すがら、春奈はきいた。
「えっと…自転車屋って、藤原さん、車いすの会社の方、ですよね」
「うん?」
藤原が意外そうな顔をするので、春奈は説明した。
「あの、テレビで観ました。車いすのことをお話してありました」
「あー、あれか。広報担当が変わってから、何かと駆り出されるようになったんだよなあ。最近、まったく知らない人からも声をかけられたりして、困ってる」
春奈は、きっと女性からも声がかかるだろう、と思った。こんな美形をみんな放っておくはずない。
「車いす事業はうちの会社の一部で、大元は自転車メーカーなんだ。一応、代表取締役だ」
「そうだったんですか…」
簡単に自転車メーカーというが、きっと大手なのだろう。ネットの記事の扱われ方でわかる。
「だから、自転車に乗れない、なんて言うと、うずうずしてな。自転車で世界を広がるあの感じを知ってほしくて、つい今日みたいなことになる」
「ありがとうございます。本当に、まさか自分が自転車に乗れるようになるなんて、思いませんでした」
全くできないと思っていたことができた喜び。単純に嬉しくて、心が踊っている。
「これから、バスで行っていたところに、自転車で行けるよ。まあ、最初っから無理はいけないが、ちょっとずつ距離を伸ばしたらいい」
「はいっ」
ちょっと遠かった本屋さんや、野菜の安いスーパー、日曜日の公園、図書館や美術館。いっきに距離が近くなった気がする。
「藤原さんといると、できないことができるようになるみたい。お料理に自転車…藤原さんは、教えるのが上手いんですね」
「そうかな。まあ、子どもの頃は、教師になるのもいいな、と思ってた」
「それも似合いそうです」
子供たちに囲まれて、慕われる藤原の姿が容易に想像できた。さらに、合点がいったことがもう一つ。
藤原が連絡先を書いたメモをくれたのは…自転車を教えたかったからなのだ。さっき言っていたように、自転車に乗れない人を見つけたら、教えたくて仕方ながないのだ。
自転車の大手メーカー社長だというのに、きっと誰にでもそうなんだろう。藤原の懐の深さというか器の大きさを、改めて感じた。
自転車を車に積んで、春奈のうちまで送り届けることになった。春奈が御礼を言っていると、ちょうど車が西橋美術館の近くにさしかかった。
「そういえば。君、この間ここの美術館の出口で倒れたんだったな」
「その説は、ありがとうございました」
思わずお辞儀してしまう。
「いや…絵が好きなのかな、と思って。空腹をこらえてでも行きたかったんだろう?」
「はい。あまり家から出るタイプではないんですが美術館に行くのだけは、好きなんです。一番好きな美術館は倉敷の大原美術館です。
藤原さんも、美術館、お好きなんですか?」
「うん。綺麗なものを見るのは全般的に好きだけれど、やっぱり絵はいいね。うちには画集がたくさんあったから、子供の頃から慣れ親しんできたよ。そして、生の絵を美術館で見るとまた違った趣きがあって。時間があったら行くようにしている」
「生の絵…確かにそうですね」
「うん。でも、まあ、絵が好きなのは、遺伝かもしれない。俺の曾祖父…うちの会社の創業者なんだが、ものすごい美術コレクターでね。私財を随分つぎこんで、西橋美術館の大元を創ったんだ」
「えっ。そうなんですか?」
急に壮大な展開になってきて、春奈は目を見張った。



