御曹司の甘いささやきと、わたし

【 プロローグ 】

 彼の長い指が私の唇に触れたのを覚えている。

 ふわふわと唇をなぞる。

 結局、目をつむって顔をあげてしまうはめになる。

 「春奈…」
 
 彼の低い声が、私の名を呼んだ。いつものハスキーな声。

 ゆっくり顔が近づいてくる気配がして、彼は私の唇に自分の唇を重ねる。

 唇が触れ合うだけのキスなのに、じんと痺れて、私は彼の胸に自分の身を預ける。

 彼の胸の奥から鼓動を聴き取る。

 甘い戯れが続き、私と彼はひとつになった。

 それは、つい昨日のことなのに。

 彼の心に彼女がいるのを知ってしまった…

 いや、本当はすでに、以前から知っていたこと。

 触れ合うことの甘さに溺れて見ないようにしていたこと。

 私は、また大事な人を忘れなくてはいけないのかもしれない…

 こんなに好きなのに…

 
第1話 

 冷蔵庫、からっぽ…
 春奈は、何も入っていない、冷蔵庫の中を覗き込み、呆然とした。確かに食材が少なくなってきたな、とは思っていた。でも、まさかこんなに何もかも無くなるなんて。
 どうしよう…
 春奈は、冷蔵庫のドアを閉めて、リビングの窓際に立つ。カーテンを開けると、外は午後の陽射しで明るかった。
「いい天気…外に行こうかな」
 ちょうど、行きたかった印象派展は、今週までだったはず。
 うん、そうだ。バスに乗って美術館に行って、その帰りに、えーと、スーパーに行けばいいのだ。
 春奈は、そう自分に言い聞かせて外出の支度した。
 セミロングの髪の毛を梳かし、ハーフアップにする。シャツワンピースは洗いざらしの割りには、そんなに皺になっていなくて、ちょっと嬉しかった。
 膝下丈なので、レギンスをはいて、お気に入りのバレーシューズを合わせることにする。

「春奈、出かけるのか」
 玄関を出て、鍵をかけていると、隣の庭で植木の水やりをやっている晃から声をかけられた。春奈の家の庭と晃の家の庭は隣接していて、低い木の柵で仕切ってあるから、向こうからこっちの玄関先が見えるのだ。
「うん、ちょっと美術館に行ってくる」
「ああ、お前の唯一の趣味な」
 晃は春奈の小さいころからのお隣さんだ。24歳の春奈と、ひとつしか違わないので、タメ口をきいている。
「うるさい」
「っていうか、お前、ちゃんと食ってんのか、顔色悪いぞ。ミネさん、まだ腰治ってなくて来てないんだろ」
「だいじょうぶ。スーパー行くし」
 すたすた、と春奈は晃の近くまで歩みを進めた。
「だいじょっ、うわっ」
 晃が手にしていてホースの水が晃の顔にかかる。春奈が、ホースの向きを、さっと変えたのだ。
「じゃあね、行ってきます」
「春奈、おま、ふざけんな」
 晃の声を背中に受けながら、春奈はバス停に向った。
 
 バス停で、時刻表をチェックすると、後三分ほどでバスが来そうだった。突然決めたお出かけの割には、幸先がいい。ただ、ちょっとお腹がすいているけれど。
 バスを待っていると、隣に、背の高い男性が、立った。
 じいっと時刻表を見ている。隣から見ているだけでも、困っている気配がにじみ出ている。
「あの…お困りですか?」
 春奈は、おそるおそる声をかけた。
 春奈だって、美術館行きのバスにしか乗らないから詳しいことは知らないのだが、時刻表を読むくらいなら、できる。
 男性は、あ、と春奈の方を向いた。
 春奈は、正面から男性の顔を見て、ドキッとした。春奈の人生の中で、お目にかかったことのないくらい、美しい容貌を、その男性はしていた。
 黒い前髪の影になっている眉毛はきりりとしていて、鼻筋も通っている。目はすっと切れ長で、唇は薄い。
「西橋美術館に行きたいんです」
 綺麗な人が口をきいた、と思いつつ、春奈は、言った。
「そのバスならすぐに来ます。31番です」
 自分も乗ろうとしていたバスなので、明解に答えられる。
「ああ、そうか。どうも」
 男性は少し会釈して言った。男性は、スーツ姿だった。よく似合っているが、今日は、日曜日だ。日曜日の美術館に、あまりスーツ姿の人はいない。どういう仕事の人なんだろう、と春奈は思ったが、ちょうどバスが来て、その疑問は消えた。
 
 想像していたよりも、西橋美術館の印象派展はよかった。モネもルノアールも、有名すぎるほど有名だが、やはり生で見ると、たまらないものがある。
 あの色使い…夢に出てこないかな…
 そんなことを考えながら、展示の順路を終え、美術館の出口に向おうとした時だった。
 あれ?なんで出口がこんなに遠いの…
 しかも、視界が暗い。
 えっ…やば…
「あ、君はさっきの」
 そういう男性の声が聞こえたが、春奈の意識はそこでぷつんと途切れた。

 お出汁の匂いがする…
 ミネさん、腰治ったのかな。ぼうっとする重い瞼をなんとか開けてみる。自分の身体にシーツが触れているので、ベッドに横たわっているのは解るのに、目を開けて見る天井は、見覚えのないものだ。
 え。ここ、私の部屋じゃない?
 慌てて、起き上がろうとするが、体に力が入らない。
 そういえば、私、美術館に行って…。
 春奈は、その後の記憶をたどろうとしたが無理だった。
 すると、カチャカチャと音をさせて、誰かが部屋に入ってくる気配がした。
「お、起きたか」
 覗き込んでくる顔は、バス停であった美形の人の顔だった。
「?!」
「俺のこと、わかるか。バス停で、会った」
 こくり、と春奈は頷いた。
「美術館の帰り際、君が俺の前で倒れたんだよ」
「たお…!」
「そう。しかも、お腹すいた、って呟いてな」
 春奈は、あんまりな展開に真っ赤になった。まさかおなかがすいたくらいで倒れるなんて思っていなかった。しかし、確かに目覚めた今も空腹感があって、頭もふらふらする。
「あの、ここは…」
「俺の家。タクシーで運んだ。救急車で病院の方がよかったか?」
「いえっ、そんな大層な…お腹がすいてただけなので…助かりました」
 春奈が思わず身を起こし頭を下げると、視界がぐにゃりとゆがんだ。
 たまらなくなって、動かした頭を、また枕に戻す。
「おっと、話より先に食わないとな。これなら食べられるか」
 男性は、ベッドサイドのトレイから、器とレンゲを春奈に差し出した。受け取ると、湯気の出ているおかゆが入っていた。さっきのお出汁の匂いはこれだったのだ。
「はい…ありがとうございます」
 見ず知らずの男性の前で、食事をいきなりするのも恥ずかしかったけれど、今は体が食べ物を必要としている。食べないと頭も体も動きそうにない。
 春奈は、恥ずかしさを心から追いやって、一口、おかゆを食べた。
「…美味しい」
 卵とネギの入った、優しい味だった。
「お。そうか、よかった」
 春奈は、はふはふ言いながら、一口、もう一口と食べ、いつの間にか完食してしまった。
 普段はあまり食べない方なので、食べきったことに驚いた。自分が思っていた以上にお腹はすいていたのだ。
「…ごちそうさまでした」
 春奈は、器とレンゲをベッドサイドのトレイの上に置いた。
「ああ」
 男性は、いつの間にかベッドの傍に椅子を持ってきていて、座って新聞を読んでいる。
「あ、あの。お名前を伺っても、いいですか」