楓花にリコーダーを教えてもらうようになってから、学校が少し楽しくなった。今までもそれなりに楽しんでいたが、できることが増えたのは単純に嬉しかった。音楽の授業はどちらかというと嫌いだったが、嫌いではなくなった。
 同級生の誰にも秘密にしていたので、放課後に隠れていることを八番目の不思議にされた。噂は楓花のクラスから広まっていたが楓花は本当のことを話さずにいてくれた。だから俺も身に覚えがないことにして、楓花とは何の関係もないことにしていた。
 もちろん、夏休みの登校日に丈志を呼びに行ったときに教室を覗いてから、面識があるのは確実になった。それでも話はしていないので、次の登校日に微妙な挨拶をした。楓花が俺とのことで悩んでいる、と分かってしまったので急きょ、佐藤に頼んで呼び出してもらった。練習のつもりはなかったが、話をしておきたかった。
「なに? 急に」
 リコーダーの練習ではないと、楓花も分かっていたらしい。
「朝、騒いでたのって、俺のことやろ?」
「……うん。友達に先に帰ってもらうの大変やから」
「そんだけ? 他にないん?」
「ほか? あー……私と渡利君が普通に話すには、同じクラスなるしかないなぁ、とか考えてた」
「……練習来てもらうのは、嫌ではないんよな?」
「うん。それは、全く」
 練習に付き合うのが嫌ではないようなので安心したが、楓花のことを考えてしばらく呼び出すのをやめた。文化祭の準備も続いていたし、楓花も大変そうだ、と丈志が話していた。俺は部活に行くフリをして友人たちを()けたが、楓花は少し苦労していたらしい。
 休み時間や登下校時にときどき楓花を見かけたが常に舞衣と一緒だったし、昼の放送でも楓花の声を何度も聞いた。クラスの用事の他に休み時間はクラブの用事で、放課後は宿題やピアノの練習で忙しかったはずだ。実際に文化祭の日、舞台で見た楓花は少し痩せているように見えた。それよりもかぶっていた帽子が気になったが──、それが〝おかしくなかった〟と思わず口から出てしまった。楓花のことを最初に可愛いと思ったわけではないし、もちろん好きになったわけでもない。それでも帽子をかぶって絵本を朗読する楓花が賢そうに見えて、なぜか誇りに思ってしまった。
 俺が無意識に言ったあと、楓花は少し困惑していた。だから俺は平静を装って、何もなかったように音楽の教科書を開いた。
「旗ついたやつよく見るけど、短いんやな」
「そう。八分音符。可愛いからちゃう?」
「……長瀬さんて、ピアノ上手いよな」
「そうかな……。ずっと習ってたら、学校でやるやつはだいたい弾けると思うけど」
「いつからやってん?」
「幼稚園入る前」
「早いな……ピアノ弾ける子って、みんなそんなもんなん?」
「たぶん。……渡利君が公園で走り回ってた頃、私はピアノ弾いてた」
 そんなことを楓花に話した記憶はない。驚いて思わず怪訝な顔をすると、楓花は〝丈志に聞いた〟と言った。
 クラス以外では楓花が一番よく話す女子生徒だったが、リコーダーに関係ない話を長く続けたのはおそらくこの日が初めてだった。楓花は俺の雑談に嫌な顔をせず付き合ってくれて、リコーダーから離れていると思い出しても特に戻ろうとせず、俺も普通に友人として話を続けていた。理由は分からないが、楓花と過ごす時間はものすごく穏やかだった。
 と言ってもやはり、楓花のことが好きだったわけではない。秘密を守ってくれているので信頼はしていたが、決してそれ以上ではなかった。
「渡利君……、好きです、付き合ってください」
 秋のある日、同級生の△△から突然、告白された。
「え……ごめん、無理。よく分からん」
 彼女のことは知っていたし、話したこともある。同級生女子の中では可愛いほうだとも思っていたが、俺は彼女と付き合いたいとは全く思わなかった。
「おい渡利、なんでなん? 可愛いやん?」
 クラスの男連中も彼女を可愛いと認識していたようで、断ったことを不思議がられた。
「いや……そうやけど……気楽に遊びたいし。女の相手とか無理」
「うわ、女子かわいそー。俺やったらとりあえず友達になるけどな」
「何して遊ぶん?」
「それは、あれやろ……」
 男連中は周りに女子生徒がいないのを確認してから〝デートでしたいこと〟を口々に言った。俺も男として、いつか大好きな彼女ができたら楽しみたいし守ってやりたいと思うかもしれないが、今のところはいない。
 俺が人気なことは分かっていたが、別に相手を選んだわけでもない。自分のことを褒めてもらえるのも、同じく人気な女子生徒と付き合えば学校中の噂になると言われるのも嬉しかったが、俺は特に興味を持てなかった。女のことはよく分からなかったし、それよりも男同士で先のことは気にせず楽しく遊びたかった。
 俺が△△からの告白を断ったことが学年で噂になって、それは〝俺には好きな人がいる〟という違う噂を生んでしまっていた。
「渡利、誰? 可愛い子?」
「いや、おらんし」
「嘘やー、一人くらいおるやろ? おまえとよく話してる子……A子とか、B美あたり? 可愛いんちゃうん?」
「おまえらと一緒にすんな。俺は俺や、勝手に決めんな」
 女子生徒たちの間でも△△は可愛いと思われているらしく、彼女がフラれたから自分は無理だ、と諦めた噂もちらほら聞いた。クリスマスからの冬休みを一緒に過ごすのは女同士に落ち着いたらしい。
 冬休みが始まる前に楓花に練習をお願いすると、彼女はいつもより静かにしていた。元々はしゃぐタイプではないが、沈黙の時間が長く感じた。
「……何か喋れよ」
「何かって?」
「いや──別に……何でも」
「……なんでさぁ、波野君とかに頼まんかったん? 友達やったら別に、楽器できへんとかバレても良かったんちゃうん?」
「あいつも、そんな得意ちゃうし。それに……あいつら、俺のこと完璧と思ってるやろ。前に〝苦手なことある〟って言ったけど信じてくれんかった」
 具体的には言わなかったが、おまえがそんなわけない、と笑って流された。だからいつの間にか、友人たちには弱音を吐けなくなった。
「私にはいろんなこと教えてくれてるけど……良かったん?」
「何が?」
「リコーダーのこと秘密にはしてるけど、一応、私も他の女子たちと一緒に渡利君の噂してんやけど」
「……あんまり見んけど?」
「教室で話してるとき輪に入るくらいやし。あんまり参加せんかったら疑われる」
 俺の噂話が始まると何かしら同意を求められて、反対したり違う意見を言ったりすると場が白けてしまうらしい。
この(・・)渡利君を知ってるから、フリやけど」
 ということは楓花も、俺のことは特に気にしていないらしい。俺と目が合うと恥ずかしがる女子生徒が多いが、楓花は動じない。
 ──これだ。
 楓花と過ごす時間が穏やかに感じられるのは、楓花が俺を見ても特に緊張せず普段通りだったからだ。思いっきり笑っているところも見たが、何度か二人で会っているうちに、楓花が(まと)う空気を求めるようになった。賑やかな学校で月に一度くらいは、穏やかに一日を終わらせたかった。
 ということは俺は、楓花のことをいつの間にか近しい関係だと認識していたのだろうか。男友達とも女友達とも違う、別の感情で──。