楓花は晴大にリコーダーを教える日の友人への嘘に悩んだ結果、佐藤から担任を通して呼び出してもらうことにした。何の用事でどれくらいかかるかは分からないので、舞衣にも先に帰ってもらうことができた。
もちろん、頻繁に呼び出されるのはおかしいし、楓花が晴大の相手をしたのも一ヶ月に一度ほどだった。試験前や何かの事情で全校生徒が帰宅しないといけない日に、楓花はだいたい晴大に会っていた。下駄箱や教室付近を確認して、同級生がいなくなってから楓花は音楽室へ行った。
「長瀬さんて、波野と同じクラスなんやな」
「……うん。出席番号は前後やし、よく話すけど」
晴大のほうが先に到着していて、最初だから、と顔を出した佐藤と座って話をしていた。楓花を見ると佐藤は『二人で大丈夫?』と聞いてから、二人とも嫌だと言わないのを見て職員室に戻っていった。
「あいつの話にたまに長瀬さん出てきてたわ」
「何の話してん?」
「別に。クラスの奴が俺の噂してる、とかばっかやけど」
晴大は楓花を見ていたけれど、その間、表情は全く変わらなかった。楓花に興味がないのか、或いは噂されることに慣れているのだろうか。
「それで、私は何を教えたら良いん? とりあえず──順番に吹いてみて。ファから」
「……ふぁ?」
「うん。ファから。……え? ソプラノリコーダーのドと一緒」
「……ど?」
「もしかして──ドレミからやったほうが良い?」
「──何か分からんけど、最初から教えてくれ」
楓花が思っていた以上に、晴大は楽器が全くできないらしい。楓花は幼い頃からピアノを習っていて絶対音感を持っているけれど、晴大にはもちろんない。
「歌はどうなん?」
「それは、聞いたらなんとなく分かる。出だし聞いたら、続き歌える」
もしかして、と楓花がピアノでドレミファソラシドと弾くと、晴大は〝どの音が何という名前か〟は分からないけれど、七音の順番くらいは分かると言った。
「じゃあ、この音は〝ド〟──これは?」
「ん? ……み?」
「じゃあ……これ〝ファ〟──これは?」
「それは……れ?」
楓花が出した問題に全て正解した、ということは、晴大は相対音感は持っているらしい。
「良かった、何とかなりそう」
楓花は荷物を置いた席に戻り、持っていた五線譜にト音記号と七つの音を書いた。それを晴大に見せると彼は首を傾げていたけれど、これはド、次はレ、と順番に教えた。
「渡利君て頭良いみたいやし、この七つ覚えたらあとは何とかなる」
「ほんまか?」
「うん。私だって、こっから外れたら、順番に見ていかな分からんし」
少しだけ時間を取って、晴大には七つの音を覚えてもらった。その間に楓花は小さめの紙を七枚用意して、一枚ずつに違う音を書いた。
「覚えた?」
「……たぶん」
「じゃあ、今から出すのが何か答えて。これは?」
「……そ」
「これは?」
「…………し」
少し時間はかかったけれど、晴大はまた楓花の問題に全て正解した。もしかすると晴大はこれまで、楽譜と真剣に向き合ったことがなかったのかもしれない。
「いけてるやん。じゃあ次は……リコーダー出して。だいたい音楽で基本の音はドで、小学校のときにやったソプラノリコーダーは全部の穴を押さえたらドなんやけど──」
「これはちゃうん?」
「そう。アルトリコーダーは、全部押さえたら低いファ」
「なんでやねん」
「それは、アルトっていうのは、ソプラノより音域低いから」
「そういうことか。……ドは?」
「左手だけ全部押さえたらド。右手は親指で支えてるだけ」
楓花がそこまで言うと、晴大はリコーダーを構えて全ての穴を押さえてファの音を──鳴らそうとして、かすれた音になってしまった。
「右手の小指とか押さえにくいし穴も二つあるけど、指の、柔らかいとこで穴を完全に塞いで」
晴大は自分の右手を何度も確認して、楓花がチェックするのを待ってから恐る恐る吹いた。ボォ、という低い音が、正しくファとして鳴った。
「鳴った……いま、鳴ったよな?」
「鳴った鳴った。いけそうやん。じゃあ──この、♯とか♭、記号ついてるやつは飛ばして良いから、それ以外を順番にやってみて」
楓花は音楽の教科書の運指表を晴大に見せて、ファソラ、と順番に練習してもらった。指先に意識が集中して肩が張っていたのでリラックスするように言い、晴大がゆっくり吹いていくのをじっと見ていた。
体育祭のときは楓花が障害物リレーに出るときに嫌そうな顔を晴大はしていたけれど、いまリコーダーを練習している晴大はものすごく素直な少年だった。これが普段の姿なら、晴大に近づこうとする女子生徒は今より多かったかもしれない。
「──何? 俺、何か変なことした?」
「ううん。たださぁ……みんながこれを知ったら何て言うんかなぁ、と思って」
「い、言うなよ? 絶体アホにされる」
「そうかなぁ……楽器苦手な男子って結構いるし」
「あいつらと一緒にすんな……俺は俺や」
何が違うのか楓花には分からなかったけれど、おそらく人気のことだろう。学校内には晴大の他にもモテている男子生徒はいるけれど、女子生徒たちにとって晴大は別格らしい。
「今までどうしてたん? 小学校でも授業で使ったやろ?」
「授業は適当にごまかして、テストの日はサボって後で一人で見てもらってた」
「……なるほど」
「なぁ、この、裏のとこ押さえへんやつは、どうするん?」
「それは、他の指で頑張るしかない」
「マジかよ、押さえるの一ヵ所やん」
「左手の押さえる指と、右手の親指でバランス取って、あとは咥えてるから離さんかったら大丈夫」
「難しいこと言うなぁ……」
それでも晴大は楓花の言うことを素直に聞いて、臨時記号なしの音の半分くらいは出せるようになった。練習の終わりには、楓花がランダムで言った音を、鳴らすには時間がかかったけれど、正しく押さえられるようにはなっていた。
「なぁ、長瀬さん──また頼んで良い?」
「……うん。良いよ」
荷物を片付ける晴大を置いて、楓花は先に音楽室を出た。ちょうど階段を下りた辺りで佐藤に会ったので、晴大は少し上達した、と話した。
「そう、良かった」
「ちゃんと鳴るのはまだ三つか四つやけど……」
「ありがとうね。またやってくれるん?」
「その、つもりです」
最後にもう一度、佐藤がお礼を言うのを聞いてから、楓花は靴を履き替えて学校を出た。もしも明日、舞衣に〝佐藤の用件は何だったのか?〟と聞かれたら──合唱部の伴奏を頼まれたけれど断り続けたことにしようか、と考えながら自宅へと向かう。間違っても、もしも〝晴大も学校に残っていたらしい〟と噂を聞いても、〝晴大にリコーダーを教えていた〟と口を滑らせてしまってはいけない。
他人にリコーダーを、それも運指ではなくドレミから教えたのは初めてだったけれど、晴大が少しでも上達してくれたことは素直に嬉しかった。晴大が〝また頼む〟と言っていたことも、楓花のことを認めてもらえた気がして嬉しくて、つい、一人で笑ってしまった。
もちろん、頻繁に呼び出されるのはおかしいし、楓花が晴大の相手をしたのも一ヶ月に一度ほどだった。試験前や何かの事情で全校生徒が帰宅しないといけない日に、楓花はだいたい晴大に会っていた。下駄箱や教室付近を確認して、同級生がいなくなってから楓花は音楽室へ行った。
「長瀬さんて、波野と同じクラスなんやな」
「……うん。出席番号は前後やし、よく話すけど」
晴大のほうが先に到着していて、最初だから、と顔を出した佐藤と座って話をしていた。楓花を見ると佐藤は『二人で大丈夫?』と聞いてから、二人とも嫌だと言わないのを見て職員室に戻っていった。
「あいつの話にたまに長瀬さん出てきてたわ」
「何の話してん?」
「別に。クラスの奴が俺の噂してる、とかばっかやけど」
晴大は楓花を見ていたけれど、その間、表情は全く変わらなかった。楓花に興味がないのか、或いは噂されることに慣れているのだろうか。
「それで、私は何を教えたら良いん? とりあえず──順番に吹いてみて。ファから」
「……ふぁ?」
「うん。ファから。……え? ソプラノリコーダーのドと一緒」
「……ど?」
「もしかして──ドレミからやったほうが良い?」
「──何か分からんけど、最初から教えてくれ」
楓花が思っていた以上に、晴大は楽器が全くできないらしい。楓花は幼い頃からピアノを習っていて絶対音感を持っているけれど、晴大にはもちろんない。
「歌はどうなん?」
「それは、聞いたらなんとなく分かる。出だし聞いたら、続き歌える」
もしかして、と楓花がピアノでドレミファソラシドと弾くと、晴大は〝どの音が何という名前か〟は分からないけれど、七音の順番くらいは分かると言った。
「じゃあ、この音は〝ド〟──これは?」
「ん? ……み?」
「じゃあ……これ〝ファ〟──これは?」
「それは……れ?」
楓花が出した問題に全て正解した、ということは、晴大は相対音感は持っているらしい。
「良かった、何とかなりそう」
楓花は荷物を置いた席に戻り、持っていた五線譜にト音記号と七つの音を書いた。それを晴大に見せると彼は首を傾げていたけれど、これはド、次はレ、と順番に教えた。
「渡利君て頭良いみたいやし、この七つ覚えたらあとは何とかなる」
「ほんまか?」
「うん。私だって、こっから外れたら、順番に見ていかな分からんし」
少しだけ時間を取って、晴大には七つの音を覚えてもらった。その間に楓花は小さめの紙を七枚用意して、一枚ずつに違う音を書いた。
「覚えた?」
「……たぶん」
「じゃあ、今から出すのが何か答えて。これは?」
「……そ」
「これは?」
「…………し」
少し時間はかかったけれど、晴大はまた楓花の問題に全て正解した。もしかすると晴大はこれまで、楽譜と真剣に向き合ったことがなかったのかもしれない。
「いけてるやん。じゃあ次は……リコーダー出して。だいたい音楽で基本の音はドで、小学校のときにやったソプラノリコーダーは全部の穴を押さえたらドなんやけど──」
「これはちゃうん?」
「そう。アルトリコーダーは、全部押さえたら低いファ」
「なんでやねん」
「それは、アルトっていうのは、ソプラノより音域低いから」
「そういうことか。……ドは?」
「左手だけ全部押さえたらド。右手は親指で支えてるだけ」
楓花がそこまで言うと、晴大はリコーダーを構えて全ての穴を押さえてファの音を──鳴らそうとして、かすれた音になってしまった。
「右手の小指とか押さえにくいし穴も二つあるけど、指の、柔らかいとこで穴を完全に塞いで」
晴大は自分の右手を何度も確認して、楓花がチェックするのを待ってから恐る恐る吹いた。ボォ、という低い音が、正しくファとして鳴った。
「鳴った……いま、鳴ったよな?」
「鳴った鳴った。いけそうやん。じゃあ──この、♯とか♭、記号ついてるやつは飛ばして良いから、それ以外を順番にやってみて」
楓花は音楽の教科書の運指表を晴大に見せて、ファソラ、と順番に練習してもらった。指先に意識が集中して肩が張っていたのでリラックスするように言い、晴大がゆっくり吹いていくのをじっと見ていた。
体育祭のときは楓花が障害物リレーに出るときに嫌そうな顔を晴大はしていたけれど、いまリコーダーを練習している晴大はものすごく素直な少年だった。これが普段の姿なら、晴大に近づこうとする女子生徒は今より多かったかもしれない。
「──何? 俺、何か変なことした?」
「ううん。たださぁ……みんながこれを知ったら何て言うんかなぁ、と思って」
「い、言うなよ? 絶体アホにされる」
「そうかなぁ……楽器苦手な男子って結構いるし」
「あいつらと一緒にすんな……俺は俺や」
何が違うのか楓花には分からなかったけれど、おそらく人気のことだろう。学校内には晴大の他にもモテている男子生徒はいるけれど、女子生徒たちにとって晴大は別格らしい。
「今までどうしてたん? 小学校でも授業で使ったやろ?」
「授業は適当にごまかして、テストの日はサボって後で一人で見てもらってた」
「……なるほど」
「なぁ、この、裏のとこ押さえへんやつは、どうするん?」
「それは、他の指で頑張るしかない」
「マジかよ、押さえるの一ヵ所やん」
「左手の押さえる指と、右手の親指でバランス取って、あとは咥えてるから離さんかったら大丈夫」
「難しいこと言うなぁ……」
それでも晴大は楓花の言うことを素直に聞いて、臨時記号なしの音の半分くらいは出せるようになった。練習の終わりには、楓花がランダムで言った音を、鳴らすには時間がかかったけれど、正しく押さえられるようにはなっていた。
「なぁ、長瀬さん──また頼んで良い?」
「……うん。良いよ」
荷物を片付ける晴大を置いて、楓花は先に音楽室を出た。ちょうど階段を下りた辺りで佐藤に会ったので、晴大は少し上達した、と話した。
「そう、良かった」
「ちゃんと鳴るのはまだ三つか四つやけど……」
「ありがとうね。またやってくれるん?」
「その、つもりです」
最後にもう一度、佐藤がお礼を言うのを聞いてから、楓花は靴を履き替えて学校を出た。もしも明日、舞衣に〝佐藤の用件は何だったのか?〟と聞かれたら──合唱部の伴奏を頼まれたけれど断り続けたことにしようか、と考えながら自宅へと向かう。間違っても、もしも〝晴大も学校に残っていたらしい〟と噂を聞いても、〝晴大にリコーダーを教えていた〟と口を滑らせてしまってはいけない。
他人にリコーダーを、それも運指ではなくドレミから教えたのは初めてだったけれど、晴大が少しでも上達してくれたことは素直に嬉しかった。晴大が〝また頼む〟と言っていたことも、楓花のことを認めてもらえた気がして嬉しくて、つい、一人で笑ってしまった。



