体育祭の前日は午前中で授業を切り上げて、午後は準備に取りかかった。全校生徒ではなく、各クラスの体育委員や運動部員など体力があると思われる生徒たちと、楓花たち放送部員だ。グラウンドの整備や入退場門、ロープの設置、ライン引きなどは体力自慢たちに任せておいて、楓花たちは放送室とグラウンドを何度か往復して、スイッチを入れればマイクは使えます、音楽も流れます、という状態にして、荷物を置いている放送室に戻った。
「帰ろ帰ろー」
「ごめん、私、佐藤先生に用事あって」
楓花は音楽の授業で聞いたことの確認を佐藤裕子にしたかったので、放課後に時間を取ってもらっていた。体育祭の準備のあとすぐに職員会議があるようなので生徒は帰らないといけないけれど、楓花は音楽室で待つように言われた。ピアノを弾くことも、音楽室が職員室から離れているので許可をもらえた。
音楽室はピアノがあるので、ほかの教室と比べると広い。最上階の角にあるので窓の面積も広く、他に誰もいないので余計に広く感じる。壁に飾ってある肖像画は見ていると怖いけれど、ピアノが好きな楓花にはあまり気にならなかった。
ピアノ教室で習っている曲を弾いてみるけれど、楽譜がないので途中で分からなくなってしまう。おまけにいつの間にか違う曲を弾いていることに気付いてピタリと止めてしまった。
「なんで止めたん? 上手いのに」
「えっ? ……渡利君?」
音楽室の入り口に晴大が荷物を持って立っていた。彼はバスケットボール部とクラスの体育委員でグラウンドの準備を担当していたようで、体操服のジャージを着ていた。
「──俺のこと知ってんの? 何年?」
「一緒、一年……長瀬楓花、です」
「ふぅん。先生は? まだ会議?」
「たぶん……。渡利君は、何してるん?」
「え……先生を待ってるだけ。長瀬さんは?」
「私も待ってるんやけど……暇やから弾いてた」
ちゃんと弾けないので楓花はピアノを閉じようとしたけれど、なぜか晴大はそのまま続けろと言った。
「でも、楽譜がないから途中までしか」
「俺には詳しいこと分からんし、静かなん嫌やから弾いといて」
分かるような分からないような理由で、楓花はまた同じ曲を最初から弾き始めた。それを見てから晴大は音楽室の後ろまで歩いていき、窓から校庭を見た。体育祭の準備で残っていた生徒はたくさんいたけれど、今はもうほとんどが帰ってしまっている。
楓花は今度は正しく弾くことができたようで、知っている通りに終わらせることができた。無事に終えて深呼吸をすると、拍手と同時に佐藤の声が聞こえた。
「長瀬さん上手やなぁ。ごめんね遅くなって」
「あっ、先生……。あの、今日の授業で言ってたことなんですけど──」
楓花の用事はすぐに終わったので、帰ろうとした、けれど。
「ところで渡利君は? 来てない?」
「さっき来てたけど……あれ?」
教室前方のピアノから晴大の姿が見えず、後方へ探しに行くと彼は床に座って眠ってしまっていた。
「おーい、渡利君、起きなさい」
「……ん? あっ、やばっ、寝てた」
「起きな時間なくなるで」
笑いながらピアノに戻る佐藤のあとを追ってから、楓花はふと気になったことがあった。
「渡利君って、何しに来たんですか?」
「ははっ、秘密やなぁ、渡利君?」
晴大は楓花の後ろに立って、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せていた。楓花が知っているのとは違う怖い顔だった。
「おまえ──」
「こら渡利君、ちゃんと名前で呼びなさい。男の子にやったらまぁ良いけど、女の子に〝おまえ〟は駄目です」
「っ……、長瀬さん──これ」
晴大は鞄を開いて何かを出し、それを楓花に見せた。晴大が持っているものは、中学生ならきっと誰もが持つであろうアルトリコーダーだ。
「これが、なに?」
「長瀬さんピアノ弾けるし、音楽得意やろ? なら、これもできるやろ? ……教えて」
「……え?」
楓花に頼んでいる晴大は恥ずかしそうに顔を赤くしていた。
「え……渡利君に、リコーダー教えるん? 私が?」
思わず佐藤のほうを見ると、彼女も〝それが良いわ〟と言い出した。佐藤は普段の放課後はクラブの顧問をしているので時間はあまりない。
「俺のこと知ってるんやったら、分かるやろ?」
「もしかして──、渡利君て人気あるから、リコーダーできへんとはバレたくない、ってこと?」
晴大はイケメンで運動神経が良くて成績も優秀で、中学生女子が好きなタイプに挙げるポイントを全て持っていた。人気があることは本人も分かっていたけれどまさか〝楽器が苦手〟とは思われたくなかったようで、〝誰もいないときに教えてほしい〟と、先生にこっそり頼んでいたらしい。
「長瀬さん、お願いして良い?」
「良いけど……でも私もクラブあるから、たまにしか無理やけど」
「うん、良いよなぁ渡利君?」
「──俺だってクラブあるし」
その日はさすがに帰らないといけなかったので、練習の日は楓花と晴大の都合が良い日を佐藤を通して伝えてもらうことになった。楓花が晴大にリコーダーを教えることは、もちろん誰にも秘密だった。だから彼の練習に付き合う日は友人たちに嘘をついて残ることになるので、どんな理由にしようか、とずいぶん考えた。
進路について相談は、今は早すぎる。
他のクラスの友人と話があるのは、間違ってはいないけれど着いてこられると困る。
晴大は意外と人を振り回すタイプだな、と寝るまで悩んだけれど良い案は浮かばず、翌日も体育祭のアナウンスよりも〝友人につく嘘〟のことを考えてしまっていた。
「楓花ちゃん、つぎ楓花ちゃんの番やで」
「ん? あっ、ごめん」
舞衣からマイクの前の席を交代され、楓花は原稿を見た。二年生のムカデ競走は、トラックを四チームで一週するらしい。
「何か考え事してたん?」
「う、ううん? 何も?」
「そうなん? さっきクラス対抗リレーのときさぁ、渡利君見てなかった?」
「え? 見てた?」
「……そう見えたけど」
楓花は無意識に、確かに晴大が走るのを目で追ってしまっていた。そんなに速く走れて注目を集めている人がリコーダーは苦手って本当なんですか、私が放課後にクラブがない日に残るためにつく良い嘘を教えてください──と、ずっと見ていた。
「たまたまちゃう? 走るの速いから、それは見てたけど」
「速かったなぁ。確か、部活対抗も出るんよなぁ」
「あー、私も走らなあかんの忘れてた……嫌やなぁ」
何の競技に出るかクラスで決めたとき、百メートル走への希望者が多く、楓花はじゃんけんに負けて障害物リレーになってしまった。苦手なハードルはなかったので安心したけれど、地面に置かれたネットの下を潜るのは髪が汚れそうなので嫌だ。
召集がかかったので入場門に並びに行くと、列の前に立ってプラカードを持っているのは晴大だった。
(げっ……)
時間差で晴大も楓花に気づいたらしい。彼は〝言うなよ、俺とおまえは面識ない設定〟と言いたいのか、少しだけ眉間に皺を寄せていた。
「帰ろ帰ろー」
「ごめん、私、佐藤先生に用事あって」
楓花は音楽の授業で聞いたことの確認を佐藤裕子にしたかったので、放課後に時間を取ってもらっていた。体育祭の準備のあとすぐに職員会議があるようなので生徒は帰らないといけないけれど、楓花は音楽室で待つように言われた。ピアノを弾くことも、音楽室が職員室から離れているので許可をもらえた。
音楽室はピアノがあるので、ほかの教室と比べると広い。最上階の角にあるので窓の面積も広く、他に誰もいないので余計に広く感じる。壁に飾ってある肖像画は見ていると怖いけれど、ピアノが好きな楓花にはあまり気にならなかった。
ピアノ教室で習っている曲を弾いてみるけれど、楽譜がないので途中で分からなくなってしまう。おまけにいつの間にか違う曲を弾いていることに気付いてピタリと止めてしまった。
「なんで止めたん? 上手いのに」
「えっ? ……渡利君?」
音楽室の入り口に晴大が荷物を持って立っていた。彼はバスケットボール部とクラスの体育委員でグラウンドの準備を担当していたようで、体操服のジャージを着ていた。
「──俺のこと知ってんの? 何年?」
「一緒、一年……長瀬楓花、です」
「ふぅん。先生は? まだ会議?」
「たぶん……。渡利君は、何してるん?」
「え……先生を待ってるだけ。長瀬さんは?」
「私も待ってるんやけど……暇やから弾いてた」
ちゃんと弾けないので楓花はピアノを閉じようとしたけれど、なぜか晴大はそのまま続けろと言った。
「でも、楽譜がないから途中までしか」
「俺には詳しいこと分からんし、静かなん嫌やから弾いといて」
分かるような分からないような理由で、楓花はまた同じ曲を最初から弾き始めた。それを見てから晴大は音楽室の後ろまで歩いていき、窓から校庭を見た。体育祭の準備で残っていた生徒はたくさんいたけれど、今はもうほとんどが帰ってしまっている。
楓花は今度は正しく弾くことができたようで、知っている通りに終わらせることができた。無事に終えて深呼吸をすると、拍手と同時に佐藤の声が聞こえた。
「長瀬さん上手やなぁ。ごめんね遅くなって」
「あっ、先生……。あの、今日の授業で言ってたことなんですけど──」
楓花の用事はすぐに終わったので、帰ろうとした、けれど。
「ところで渡利君は? 来てない?」
「さっき来てたけど……あれ?」
教室前方のピアノから晴大の姿が見えず、後方へ探しに行くと彼は床に座って眠ってしまっていた。
「おーい、渡利君、起きなさい」
「……ん? あっ、やばっ、寝てた」
「起きな時間なくなるで」
笑いながらピアノに戻る佐藤のあとを追ってから、楓花はふと気になったことがあった。
「渡利君って、何しに来たんですか?」
「ははっ、秘密やなぁ、渡利君?」
晴大は楓花の後ろに立って、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せていた。楓花が知っているのとは違う怖い顔だった。
「おまえ──」
「こら渡利君、ちゃんと名前で呼びなさい。男の子にやったらまぁ良いけど、女の子に〝おまえ〟は駄目です」
「っ……、長瀬さん──これ」
晴大は鞄を開いて何かを出し、それを楓花に見せた。晴大が持っているものは、中学生ならきっと誰もが持つであろうアルトリコーダーだ。
「これが、なに?」
「長瀬さんピアノ弾けるし、音楽得意やろ? なら、これもできるやろ? ……教えて」
「……え?」
楓花に頼んでいる晴大は恥ずかしそうに顔を赤くしていた。
「え……渡利君に、リコーダー教えるん? 私が?」
思わず佐藤のほうを見ると、彼女も〝それが良いわ〟と言い出した。佐藤は普段の放課後はクラブの顧問をしているので時間はあまりない。
「俺のこと知ってるんやったら、分かるやろ?」
「もしかして──、渡利君て人気あるから、リコーダーできへんとはバレたくない、ってこと?」
晴大はイケメンで運動神経が良くて成績も優秀で、中学生女子が好きなタイプに挙げるポイントを全て持っていた。人気があることは本人も分かっていたけれどまさか〝楽器が苦手〟とは思われたくなかったようで、〝誰もいないときに教えてほしい〟と、先生にこっそり頼んでいたらしい。
「長瀬さん、お願いして良い?」
「良いけど……でも私もクラブあるから、たまにしか無理やけど」
「うん、良いよなぁ渡利君?」
「──俺だってクラブあるし」
その日はさすがに帰らないといけなかったので、練習の日は楓花と晴大の都合が良い日を佐藤を通して伝えてもらうことになった。楓花が晴大にリコーダーを教えることは、もちろん誰にも秘密だった。だから彼の練習に付き合う日は友人たちに嘘をついて残ることになるので、どんな理由にしようか、とずいぶん考えた。
進路について相談は、今は早すぎる。
他のクラスの友人と話があるのは、間違ってはいないけれど着いてこられると困る。
晴大は意外と人を振り回すタイプだな、と寝るまで悩んだけれど良い案は浮かばず、翌日も体育祭のアナウンスよりも〝友人につく嘘〟のことを考えてしまっていた。
「楓花ちゃん、つぎ楓花ちゃんの番やで」
「ん? あっ、ごめん」
舞衣からマイクの前の席を交代され、楓花は原稿を見た。二年生のムカデ競走は、トラックを四チームで一週するらしい。
「何か考え事してたん?」
「う、ううん? 何も?」
「そうなん? さっきクラス対抗リレーのときさぁ、渡利君見てなかった?」
「え? 見てた?」
「……そう見えたけど」
楓花は無意識に、確かに晴大が走るのを目で追ってしまっていた。そんなに速く走れて注目を集めている人がリコーダーは苦手って本当なんですか、私が放課後にクラブがない日に残るためにつく良い嘘を教えてください──と、ずっと見ていた。
「たまたまちゃう? 走るの速いから、それは見てたけど」
「速かったなぁ。確か、部活対抗も出るんよなぁ」
「あー、私も走らなあかんの忘れてた……嫌やなぁ」
何の競技に出るかクラスで決めたとき、百メートル走への希望者が多く、楓花はじゃんけんに負けて障害物リレーになってしまった。苦手なハードルはなかったので安心したけれど、地面に置かれたネットの下を潜るのは髪が汚れそうなので嫌だ。
召集がかかったので入場門に並びに行くと、列の前に立ってプラカードを持っているのは晴大だった。
(げっ……)
時間差で晴大も楓花に気づいたらしい。彼は〝言うなよ、俺とおまえは面識ない設定〟と言いたいのか、少しだけ眉間に皺を寄せていた。



