「……そんなふうに思い始めた頃でした。あの事件が起きたのは。」
橘の声がわずかに低くなった。
部屋の静けさが、まるでその瞬間を再現しているかのように張りつめていく。
「都内で開催された経済再生フォーラムの帰路でした。安西総理が政府公用車に乗り込もうとした、ほんの一瞬の隙をついて、歩道に一台の軽ワゴンが突入しました。警護官の制止は間に合わず、車体は総理の体を撥ね飛ばしました。」
紗良は思わず息を呑んだ。
言葉にはされないが、その場にいた橘の胸の内がひしひしと伝わってくる。
「私はすぐに駆け寄り、止血処置と、シーツラッピング……できる限りの処置をしました。でも……骨盤と肋骨の複雑骨折、肝臓への打撲、そして、心臓への大きな負担……」
橘の指が無意識に膝の上でかすかに動いた。
それが、かつての手の震えの名残のように見えて、紗良は胸が締めつけられた。
「慢性心不全が悪化して……数日後に、亡くなられました。医師として――いえ、あの場で唯一医療知識を持っていた人間として、私は……」
橘はそこまで言って、ふと言葉を切った。
その目に、確かな悔しさと、どこか許されぬものを背負う色が滲んでいた。
「……私は、安西総理の病室に呼ばれました。生死の境をさまよっていた頃です。何か雑用でも頼まれるのかと軽く考えていたのですが……ベッドの脇に呼ばれ、耳を寄せるように言われました。」
そこから先の橘の語りは、静かながら、ひとつひとつの言葉が胸に響くようだった。
「『橘君、君には謝りたいことがある』――そう仰いました。
私を指名したのは、総理の独断だったと。
警護課のトップは反対していた。医者としての経歴を理由に、本来の任務以外の負担を背負わせたと。
私の苦悩を、表情から何度も見抜いていたと……」
紗良は、その場にいないのに、安西の囁く声すら耳に聞こえるような錯覚を覚えた。
「……でも、最後に総理はこう言いました。
『私は君の姿に、"国家を背負う覚悟"というものを見ていた。命を張って誰かを守るという意志が、君にはあった。あの若さで、それを持っていたのは、君だけだった。』
――『橘君、君は“信頼”を背負う者として選ばれた。自分の覚悟を恥じるな。』」
橘は目を閉じた。
それは、今なお胸に深く残る言葉を心の中で確かめるような仕草だった。
紗良の喉の奥がきゅっと鳴った。
橘が背負ってきたもの。その重さと、彼がどれほど一人きりでその意味を抱えてきたのか――
想像するだけで、胸が痛んだ。
「……すごい方だったんですね、安西さんも、橘さんも。」
その声は、気づかぬうちに紗良の唇からこぼれていた。
橘はふっと息を吐き、どこか遠くを見つめるように笑った。
「……あの言葉に、今も縛られている気がするんです。でも――その“縛り”があるからこそ、自分はここにいられる気もするんです。」
それは、重みと誇りの両方を内包した言葉だった。
そして、紗良は知った。
彼が“誰かを守る”ということに、命の記憶が重なっているということを。
橘の声がわずかに低くなった。
部屋の静けさが、まるでその瞬間を再現しているかのように張りつめていく。
「都内で開催された経済再生フォーラムの帰路でした。安西総理が政府公用車に乗り込もうとした、ほんの一瞬の隙をついて、歩道に一台の軽ワゴンが突入しました。警護官の制止は間に合わず、車体は総理の体を撥ね飛ばしました。」
紗良は思わず息を呑んだ。
言葉にはされないが、その場にいた橘の胸の内がひしひしと伝わってくる。
「私はすぐに駆け寄り、止血処置と、シーツラッピング……できる限りの処置をしました。でも……骨盤と肋骨の複雑骨折、肝臓への打撲、そして、心臓への大きな負担……」
橘の指が無意識に膝の上でかすかに動いた。
それが、かつての手の震えの名残のように見えて、紗良は胸が締めつけられた。
「慢性心不全が悪化して……数日後に、亡くなられました。医師として――いえ、あの場で唯一医療知識を持っていた人間として、私は……」
橘はそこまで言って、ふと言葉を切った。
その目に、確かな悔しさと、どこか許されぬものを背負う色が滲んでいた。
「……私は、安西総理の病室に呼ばれました。生死の境をさまよっていた頃です。何か雑用でも頼まれるのかと軽く考えていたのですが……ベッドの脇に呼ばれ、耳を寄せるように言われました。」
そこから先の橘の語りは、静かながら、ひとつひとつの言葉が胸に響くようだった。
「『橘君、君には謝りたいことがある』――そう仰いました。
私を指名したのは、総理の独断だったと。
警護課のトップは反対していた。医者としての経歴を理由に、本来の任務以外の負担を背負わせたと。
私の苦悩を、表情から何度も見抜いていたと……」
紗良は、その場にいないのに、安西の囁く声すら耳に聞こえるような錯覚を覚えた。
「……でも、最後に総理はこう言いました。
『私は君の姿に、"国家を背負う覚悟"というものを見ていた。命を張って誰かを守るという意志が、君にはあった。あの若さで、それを持っていたのは、君だけだった。』
――『橘君、君は“信頼”を背負う者として選ばれた。自分の覚悟を恥じるな。』」
橘は目を閉じた。
それは、今なお胸に深く残る言葉を心の中で確かめるような仕草だった。
紗良の喉の奥がきゅっと鳴った。
橘が背負ってきたもの。その重さと、彼がどれほど一人きりでその意味を抱えてきたのか――
想像するだけで、胸が痛んだ。
「……すごい方だったんですね、安西さんも、橘さんも。」
その声は、気づかぬうちに紗良の唇からこぼれていた。
橘はふっと息を吐き、どこか遠くを見つめるように笑った。
「……あの言葉に、今も縛られている気がするんです。でも――その“縛り”があるからこそ、自分はここにいられる気もするんです。」
それは、重みと誇りの両方を内包した言葉だった。
そして、紗良は知った。
彼が“誰かを守る”ということに、命の記憶が重なっているということを。



