点滴が刺さる瞬間、紗良が見せたあの表情。
眉間のしわ、噛みしめた唇、堪えようとする涙。
――見ていられなかった。
橘は正面を向いたまま、視線だけをそっと落とした。
息を浅く吸い、ゆっくりと吐く。
感情を表に出すことを禁じられてきた時間が長すぎて、もはやそれは呼吸と同じように身体に染みついている。
だけど、今日はそれがうまくいかない。
(……平気なふりを、してる)
誰よりも強がりで、誰よりも繊細な彼女。
紗良はたぶん、周囲に弱さを見せることが怖いのだろう。
それは彼女の育ちゆえか、それとも政治家の娘という立場のせいか。
いずれにせよ、自分をさらけ出すことに慣れていないのだと、橘は思う。
(「注射が怖い」なんて、普通なら笑って済むことなのに……)
それを言うのにさえ、彼女はあんなにも気を遣っていた。
「子供みたいでごめんなさい」なんて、言わなくていいことを。
もっと、弱音を吐いてくれればいいのに。
苦手なら苦手だと、怖いなら怖いと、ただ、それだけで――。
橘の手が自然と動き、ティッシュを一枚抜いて差し出していた。
彼女の涙に気づいていないふりなんて、もうできなかった。
「お疲れさまでした」
できるだけ、普段通りの声で。
けれど、自分の声が少しだけ揺れていることを、橘自身は気づいていた。
紗良が「ありがとうございます」と言ったとき、橘の中にひとつ、知らない感情が落ちた。
それは「同情」ではない。
「任務感情」でも、「保護欲」だけでもない。
ただ、彼女が痛みに顔をしかめるたびに、どうしようもなく自分の胸がざわつく。
その痛みを、代わってやれるものならと、心の奥で願ってしまう。
そんな気持ちを、橘は知らなかった。
いや、
"知らないふりをしていたのかもしれない。"
――これは、まずい。
無言のまま橘は一歩だけ、ベッドから離れた。
わずかな距離を取るように。
任務は冷静でなければならない。
感情を挟んではならない。
そう教えられ、そうしてきたはずだった。
けれど、目を閉じて涙をこらえる彼女の姿が、視界の奥に焼きついて離れなかった。
もし彼女が「痛い」と声に出していたら。
もし「手を握って」と言っていたら――
自分はそれに、どう応えただろうか。
橘は、ほんのわずか唇を噛んだ。
誰にも気づかれないように。
彼の中で、警護者と男の境界線が、少しずつ、揺らぎ始めていた。
眉間のしわ、噛みしめた唇、堪えようとする涙。
――見ていられなかった。
橘は正面を向いたまま、視線だけをそっと落とした。
息を浅く吸い、ゆっくりと吐く。
感情を表に出すことを禁じられてきた時間が長すぎて、もはやそれは呼吸と同じように身体に染みついている。
だけど、今日はそれがうまくいかない。
(……平気なふりを、してる)
誰よりも強がりで、誰よりも繊細な彼女。
紗良はたぶん、周囲に弱さを見せることが怖いのだろう。
それは彼女の育ちゆえか、それとも政治家の娘という立場のせいか。
いずれにせよ、自分をさらけ出すことに慣れていないのだと、橘は思う。
(「注射が怖い」なんて、普通なら笑って済むことなのに……)
それを言うのにさえ、彼女はあんなにも気を遣っていた。
「子供みたいでごめんなさい」なんて、言わなくていいことを。
もっと、弱音を吐いてくれればいいのに。
苦手なら苦手だと、怖いなら怖いと、ただ、それだけで――。
橘の手が自然と動き、ティッシュを一枚抜いて差し出していた。
彼女の涙に気づいていないふりなんて、もうできなかった。
「お疲れさまでした」
できるだけ、普段通りの声で。
けれど、自分の声が少しだけ揺れていることを、橘自身は気づいていた。
紗良が「ありがとうございます」と言ったとき、橘の中にひとつ、知らない感情が落ちた。
それは「同情」ではない。
「任務感情」でも、「保護欲」だけでもない。
ただ、彼女が痛みに顔をしかめるたびに、どうしようもなく自分の胸がざわつく。
その痛みを、代わってやれるものならと、心の奥で願ってしまう。
そんな気持ちを、橘は知らなかった。
いや、
"知らないふりをしていたのかもしれない。"
――これは、まずい。
無言のまま橘は一歩だけ、ベッドから離れた。
わずかな距離を取るように。
任務は冷静でなければならない。
感情を挟んではならない。
そう教えられ、そうしてきたはずだった。
けれど、目を閉じて涙をこらえる彼女の姿が、視界の奥に焼きついて離れなかった。
もし彼女が「痛い」と声に出していたら。
もし「手を握って」と言っていたら――
自分はそれに、どう応えただろうか。
橘は、ほんのわずか唇を噛んだ。
誰にも気づかれないように。
彼の中で、警護者と男の境界線が、少しずつ、揺らぎ始めていた。



