お断りしたはずなのに、過保護なSPに溺愛されています

橘はエントランスホールの静けさの中、補助要員の村上に無線で軽食の手配を依頼したあと、紗良の部屋の玄関前に立ち、手元のタブレットにその日の記録を打ち込んでいた。

目の前の無機質な扉の向こうに、彼女がいる。

昨日見た彼女の顔が、頭を離れなかった。
目はわずかに赤く腫れ、声にはどこか力がなかった。
涙を見たわけではない。だが、橘の経験が、それを確信に変えていた。

要人警護に長く携わってきた橘にとって、それは珍しいことだった。

これまで守ってきたのは、総理大臣をはじめとした、常に緊張感を(まと)い、自己の立場と責任を心得た者たち。彼らはある意味、SPを信頼し、必要とあらば命を盾にすることも当たり前だと考えている人間だった。
その信頼の構築は早く、実務的でもあった。

でも――彼女は違う。

彼女は、この境遇を望んでいたわけじゃない。
政治家の娘という生まれのせいで、不本意にも脅威にさらされている。
守られることを当然だと感じるどころか、常に戸惑い、遠慮し、何より不安を隠しきれていない。

“対象者に合わせなさい。不安を和らげて、信頼を獲得して。心を守りなさい”

松浦の言葉が、静かに胸に染みてくる。

“命を守れば任務は果たされた”――確かに、閣僚を警護するなら、それで十分だ。
でも、彼女には、それだけでは足りないのかもしれない。

自分が守るのは、彼女の命だけじゃない。
彼女が穏やかに過ごすべき日常であり、そしてまだこれから続いていく人生なのだ。

橘はタブレットの画面を閉じ、深くひとつ息を吐いた。
手にした無線のスイッチを親指でなぞりながら、もう一度思う。
――自分は、彼女の“盾”ではあるけれど、それだけであってはならないのかもしれない。

扉の向こうの静けさに、耳を澄ました。