海に凪ぐ、君の名前

あの日は、5月なのに、クーラーなしじゃ過ごしずらい夜だった。

あの日、家を飛び出した。たぶん、もう全部放りなげて、どこか遠くに行きたくなったんだ。

縛ってくる鎖のような重みを、振りほどくように走った。

服が汗で張り付いて気持ち悪かった。空気を吸っても、酸素が入ってこない感じがした。

息苦しい。足が重たい。

そんな体と足を引きずるようにひたすらに動かした_____瞬間、空と道路が反転した。

それが、自分自身が道路に転がってしまったのだと少し遅れて気づいた。

手のひらには血が滲む。それを見て、妙に冷静になった。

(こんな時間に、こんな所で何してんだろ)

そう、膝に手をかけた時、頭上で大きな破裂音がした。

爆発に近い大きな音の方に、思わず見上げる。

そこには、真っ黒な世界にしてはまばゆ過ぎる火の花が咲いていた。

あの風景は、今でも忘れられない。

ほんの数秒だけ咲く花火は、一瞬を永遠に感じさせる。

でも俺はやっぱり、捻くれ者だ。

「海…」

頭上で大輪の花を咲かせる空と違って、俺の視線は下に釘付けだった。

真っ黒に揺れる夜の海があった。

海は、火花を反射して、空よりも淡く光らせる。波の揺れで、四方に光が分散する。

空のようにくっきりと曲線の現れない水面の火の花は、俺の瞳を独占した。

美しい。

それ以外の、なにものでもない。



『…なーに?』



その声は、花火の破裂音をすり抜け、鼓膜を揺らした。

振り向くと、彼女がいた。

大勢の人は花火を見つめて上を向いていただろう時に、彼女は目の前にいる俺だけをじいっと見つめていた。

楽しそうに軽やかな足取りで近づいた。

『…は?だれ』

俺の顔を見て、子供みたいにころころと笑った。

何がそんなに可笑しいのか分からなくて、ただ、その笑った顔を見ていた。

『ねえ、どうしてそんな顔してるの?』

誰かも分からなかった女の子は、小首を傾げてそう言った。

『そんな顔って?』

答えなんて聞かなくてもわかってる。

見たこともないくらい綺麗な顔。彼女の好みの顔。誰かに渡したくないくらい特別な容姿。そんなところだろう、と。

『心が、空っぽみたいな顔』

——見抜かれた、と思った。

初めてだった。凪希じゃなく、“俺”を見た人は。

彼女の大きな瞳には、色とりどりの小さな火花が咲いていた。

彼女と、俺だけに見えている小さな花火。

海の妖精だと思った。それか、花火の妖精。

話していくうちに、全然妖精なんて言えるような人相ではないとわかったが、あの夜の彼女はやはり、妖精という他ない。

少し入り組んだところにある、真っ白で古びた堤防。

そこで、初めて彼女と出会ったのだ。