海に凪ぐ、君の名前

彼女は涙が混じる声で話した。

「ネットで騒がれて以来、レンズが人の目に見える。私が何を言ってもみんなに睨まれてるような気がして」

彼女のこの小さな手は、どれだけ冷たいものに触れてきたのだろうか。

彼女のこの小さな背中には、どれだけの重荷があったのだろうか。

怒り、憎悪、嫌悪。

黒い感情がみぞおちで渦を巻く。

怒りは、彼女に向けたものじゃない。

あの記事を書いたやつに、面白半分で叩いたやつに、“正義”みたいな顔して石を投げたやつらに。

そして、沢山の重荷を抱えている彼女に何も出来ない自分に。

でも今それを言ったところで、彼女の震えは止まらない。

「声のこと、なんで、言ってくれなかったの?俺ら、堤防に行けばいつだって会えたじゃん」

彼女の肩がぴくりと揺れた。

「…言ってたら、変わってた?」

静かだけど、力強い言い方。

「この炎上、君に言ってたら何か変わった?」

今度は、さっきより声を大きくして言う。

思わず身を強ばらせた。

「何も変わらないよね?言ったところで無駄なの」

「無駄って、」

「無駄だよ!」

俺の手を振り払って、乱暴に立ち上がる。

静まった部屋に声がキーンと響く。

その様子に、手からじんわりと熱を失っていく感じがした。

「たしかに、俺一人では何も出来なかっただろうけど、そういう事じゃないだろ?何か出来るから話すんじゃなくて、辛さを分け合うんだよ」

小さな手は強く握られ、震えている。

それを見て、思わず声が震えてしまう。

「…凪希くんには、分かんないよ」

小さな声。

「私の仕事は、笑うことなの!!」

俺を見据えて、キツく睨んで声を荒らげる。



「私は、辛さなんて感じない。だから分け合う必要なんてない!私は『浜田 想良』なんだから!…一般人の凪希くんには分かんないよ!!」



部屋に響くのは、彼女の荒い息の音だけ。

さっきまで騒がしかった廊下の声も、気を使っているかのように静まり返っていた。

静けさが際立つ。

それよりも、彼女の言い方に覚えがある。

『凪希くんには、分かんないよ』それは、俺が嵐に言った言葉とそっくりだ。

彼女もきっと、俺と同じなんだ。目の前で小さく震えるこの女の子と俺は同じ思いを持っているんだ。

自分の辛さを、他人に計られたくない。

俺が1番わかっているはずだったのに。それを想良にしてしまった。

(最っ低じゃん、俺)

きっと、この気持ちを分け合えるのは俺だけなのに。

俺が突き放してどうするんだ。何してんだよ、俺。

「…確かに、一般人の俺になんて、芸能人の辛さは分かるわけないよな。知ったような口聞いてごめん」

想良は、何も言わない。

俯いたまま、ただ荒くなった息を整えている。

彼女の、髪の毛の間から悲痛な顔が見えた。どくんと嫌な脈が打つ。

思わず想良の小さな手を引く。

力のままに引き寄せられる彼女を優しく抱き止める。

彼女の匂いがすごく近くで香る。

シトラスに香った匂いは、彼女の柔らかさが加わって甘いチョコレートのような匂いに変わる気がした。

俺ができるのは、彼女の心をほんの少しだけ溶かしてあげることだけなんだ。

彼女が今欲しい言葉は俺には分からない。

でも、俺が言われたかった言葉ならわかる。

それは、「頑張ったね」でも「無理しないで」でもない。



「大丈夫だよ、想良」



君が歩んだら俺も隣に並びたい。

君が少し疲れたら、そのそばに居たい。

「何を言っても、失敗しても、俺は想良を嫌いにならない。君の1番の味方でいたい」

沈黙に包まれる。

彼女の睫毛が震える。

「…なんで」

その問いは、責めるでも甘えるでもなく、ただ純粋だった。

なんで、か?そんなの。

「想良の笑った顔、すごく綺麗なんだ」

言った瞬間、自分でも驚くくらい静かな声だった。

部屋の外の足音が、遠くなる。

「楽しい時に楽しいって叫ぶように笑うんだ。俺の作り笑いなんて全然、綺麗じゃなく思えてくるくらい__綺麗だ」

想良の瞳が、大きく見開かれる。

「…え?」

涙で濡れた目が、今度は違う意味で揺れる。

勢いに流されてつい変なことを言ったか?

「いや、その、変な意味じゃなくて、」

「どういう意味?」

食い気味で聞いてくる。さっきまで泣いていたくせに。

俺はコーヒー缶を握りしめる。ブラックコーヒーが、妙に苦い。

「…お前が苦しむのを見たくないっていう、」

「だから、つまり?」

「ああもう!知らねぇよ」

彼女は、涙の跡を残したまま、少しだけ笑った。

さっきまでの怯えた顔じゃない。ほんの少し、光が戻ってる。

「ありがとう」

小さな声。ただの本音。

俺は迷わず頷いた。

「浜田さーん!そろそろ再開しますよ!」

スタッフの声が部屋に響いた。

想良の手がまた微かに震える。

「大丈夫」

彼女の手を強く包む。

「また、声が出なくなったら…」

「俺が隣にいる」

小さく呟く彼女の声をかき消す。

「カメラが怖くなったら?」

「俺を見ればいい」

「なにそれ。かっこつけちゃって」

「うるせーな。早く行くぞ」

想良はくしゃっと笑った。

その笑顔はまだ少し不安定だけど、確実にさっきより強い。