海に凪ぐ、君の名前

空が完全に水色になり始めた頃、放置していたスマホに電源を入れた。

ナツさんの着信が二十件も溜まっているのに気づいた。

でも、通話ボタンを押す気には、なれなかった。

体がベタつく感じがして気持ち悪い。

そのまま電源を切って、家向かってふらふらと歩き出した。

ただ、ぼーっと歩いた。

住宅のブロック塀。秋の始まりを感じさせる、弱々しいセミの鳴き声と日差し。

それらをぼーっと見て見ぬふりをした。

やっと気が付いたのは、ナツさんの俺の名前を呼ぶ声だった。

「凪希さん!!」

気づいたら、家の門の前に立っていた。

ナツさんは俺の姿を見つけるやいなや、石畳を転がるように走って、抱きついた。

「…心配したんですよっ!どこに行ってらしたのですか!」

悲痛な声と震える手。

ぎゅっと抱きしめられ、申し訳ない気持ちが溢れ、ナツさんの背中に手をまわす。

「ナツさん、ごめんなさい」

触れたナツさんの服は、氷のようにひんやりとしていた。

(一晩中、外にいたのか…?)

夏の終わりだと言えど、秋の始まりだ。

夜は冷えたのだろう。

もう若くないナツさんを、一晩中、寒くて心配で震えさせてしまっていた。

大切な人に迷惑ばかりかけてしまっている。

本当に、自分が嫌になる。

「ごめんなさい」

もう一度、今度は絞り出すような、かすれた声になる。

「もう、連絡なしに居なくなるのはおやめ下さいね」

ナツさんは抱きしめていた腕を解き、俺の右手に両手を重ねた。

暖かいふっくらした手。

そして、柔らかく微笑んだ。

「さあ、早く中に入りましょう。凪希さんの好きなピザトーストを作る用意は出来ていますから」

こんなにも優しいナツさんに、俺は不安な思いをさせてしまった。

罪悪感と疲労感で、体がずっしりと重く感じる。さっきまでは、そんな感覚なかったのに。ナツさんをみて、少し落ち着いたのだろうか。

ナツさんが重たい玄関の戸を引くと、その音を聞いて、嵐がリビングから俺の元へかけよってきた。

嵐は昨日、留学先に戻ると言っていた。

なのに、まだいるということは、きっと、俺が帰ってこないのを心配したのだろう。

申し訳なさに包まれる。

「凪希!どこ行ってたの!」

心配を含んだ声の中に、俺のことを責めるような何かがあった。

一気に、鮮やかな絵を真っ黒で塗りつぶされたような気分になる。

俺だって好きであんなところで一夜過ごした訳じゃない。

何も知らないくせに。

「どこだっていいだろ。過保護かよ」

「凪希さん…、」

ナツさんは、“凪希”らしくない言い方に、驚いたような戸惑ったように言う。

そんな様子をみた嵐は、さらに眉に皺を寄せた。

「心配かけないでって言ってるのよ!ナツさん、一晩中、外で待ってたんだよ!?私だって、昨日向こうに帰る予定だったのを一日遅らせたのよ!迷惑かけないでよ!」

「分かってるから!そんなこと!」

嵐の声をかき消すみたいに、声が荒がる。

「凪希さん…っ!落ち着いてください」

ナツさんは、俺の右手をぐっと引っ張った。

暴走しかけている俺を凪へ戻すように。

「凪希、みんな心配してたんだよ。なのに、そんな言い方ないでしょう?」

ナツさんとも嵐とも目を合わせずに、下を向き続ける俺に、嵐は先程より落ち着いた声で話す。

嵐の強く握られた拳は、わずかに震えている。

目の下には薄いくまができていた。服だって、昨日のままだ。嵐も、一晩中待っていてくれたんだ。

じりじりとみぞおち辺りが熱くなる。

迷惑かけたことくらい言われなくても、分かっている。

分かっていることを、まるで何も考えていないかのように言われたから、知っていることをまるで無知であるかのように言われたから、イライラしているんだ。

出来損ないだからって、何も考えていない訳じゃない。

なんで、嵐にそんなこと言われなきゃなんだ。

「…わかってるって」

ごちゃごちゃと心の中でうごめいている言葉は、そんな小声としてしか出せなかった。

怒るような筋合い、俺にはないから。

___なのに。

嵐の正論、ナツさんの心配そうな目、冷えた服、嵐の寄せた眉。

気に食わない。

迷惑かけたってことくらい、分かってるんだ。そんなにガキじゃない。

なのに、どうしようもなく怒りがフツフツと湧く。怒りの逃げ場がない。

「…嵐には、わかんねぇよ」

一言が、溢れた。

「え?」

驚いたような顔をする嵐を見て、関が崩壊するみたいに溢れ出した。

「嵐には分かる訳ねぇよ!いつもいつも、期待寄せられて、すごいすごいって言われて!そんな奴が、俺みたいな出来損ないの気持ちなんてわかるかよ!父さんだって、俺を後継ぎとしてしか見なくなった!母さんが居れば違ったはずだ!」

「ちょっ、凪希っ」

驚いた嵐がこちらに手を伸ばす。

その手すら、嘲笑ってるかのように見える。

「さわんな!」

鈍い音とともに、嵐の腕は、跳ね除けられた。

「母さんがいれば俺はこんな思いしなかった!あの人が、再婚なんかしなければ比べられることなかった!嵐が……、嵐さえ……、お前さえ居なければっ!!!」









「凪希」








太く低い声。

空気を支配するこの存在感。

振り向かなくてもわかる。父さんだ。

俺の身勝手な怒りは、穴の空いた風船のように一瞬でしぼんだ。

その代わり、焦りと恐怖が身体を支配した。

「どうしたんだ。俺の部屋まで声が聞こえてきたぞ」

唇がガクガクと震えて、上手く動かせない。

喉もカラカラになって、声が出ない。

額にじんわりと汗がにじむ。

息が上手く吸えない。

視界が、歪む。

目の前の景色はぼんやりと霞んで、そのまま、真っ暗になった。