夕焼けだった空は、もう黒に近い青が広がり始めている。
「なあ」
「なに?」
彼女はずっと俺の半歩先を歩いて俯いて、顔は見えない。
声色はいつもと同じなのに、嵐の前の静けさのようなざわめきがある。
これから俺が何を言おうとしているのか分かってるみたいだった。
そうだとしても、聞かずには居られない。
「記事、ってなんだよ」
「何って?」
「いや、」
彼女は、俯いていた顔をふと海に向けた。
聞かれたくなかったと、言ってるようだった。
聞いたことを少し後悔した。無理やり聞いても、彼女を傷つけるだけなのではないか、と。
でも、彼女の話を聞かずして、俺が勝手に解釈するのはやっぱり違う。
「ソラって誰だよ」
彼女が話したいと思うまで急かすのも、質問で攻めるのも、どれも正しいとは思わなかった。
俺は、ただ、黙っていることしか出来ない。なんと声をかければいいか分からなかったから。
「…口下手通り越してド直球だね」
想良は、あははっと声を出した。でも、目は笑ってない。
「私だよ」
「え?」
間抜けな声が出た。
「私、あの、ハマダ ソラだよ」
「えっと…どの、ハマダ ソラ?」
「え?」
今度は彼女の方が間抜けな声を出して、振り向いた。ぽかんと口を開けて俺を見つめている。
「あ、もしかして俺と知り合いとか?」
しばらくぼーっとした後、彼女は破裂するように笑った。
「そっかそっか!君は“そういう人”だったね!」
(いや、どういう人だよ…)
もしかして、人の名前すら覚えられないような非常識なやつだと思われているのか?
「普段は名前忘れたりしないんだけどな。…いや、悪い。正直に言うと、父さんの仕事の付き合いで、顔見知りは覚えきれないくらい居るんだよ。会社の名前とか教えてもらえれば、分かるかも」
それを聞いた彼女はさらに声を上げて笑う。
「違う違う!知り合いじゃないんだってば!あーお腹痛い」
本当にどういうこと?
でも、とりあえず知り合いじゃ無いって事だよな?
「ほんとに君って…」と小さく呟いて、ふふっと笑った。安堵のこもった声がごぼれる。
「じゃ、名前、ソラだから。よろしくね」
「っよろしく。あ、おれは、」
「沖野 凪希!」
彼女は俺が言うより先に、にっこりと笑って言った。
「…え、なんで?」
「この前、単語帳に書いてあったの見たの」
リュックの中に手を突っ込んで、単語帳を取り出すと、背表紙に擦り切れた文字で『沖野 凪希』としっかり書かれていた。
これか。じゃあ、名前知らなかったのって俺だけか?
(なんだ、教えろよ。そしたら、もっと早く聞いたのに。名前ってその人の象徴らしいのに)
ふと、陽太の言っていたことが頭をよぎる。
「あ…なあ、ソラってどんな漢字?」
「浜辺の浜に田んぼの田で浜田。あと、想像の想に、善良の良で、想良だよ」
浜田 想良。胸の奥でもう一度呟く。
広い価値観をもつ彼女に、ピッタリだと思う。
だけど、なんだろう。彼女は空というより、海のような感じがする。
底知れないほど深くて、未知で、幻想的。
海のような空ということか。
「由来は?」
また陽太の言ったことを思い出して、彼女に尋ねる。
「えー由来?…あー、みんなに想われるような素敵な良い子になってほしい、だったかな」
「ふーん」
うん、全然わからん。
やっぱり由来だけじゃ彼女のことが全然分からない。陽太のやろう、適当いいやがって。
「聞いといて興味無さそうだねえ。凪希くんは?由来」
「あー聞いたことないかも」
「はあ?私に聞いといてそれ?」
「いや、名付けてくれたのは母親のはずだから」
そう言ってから、少しだけ沈黙が落ちた。
想良は「そっか」と小さく頷いて、それ以上は何も聞かなかった。
波の音だけが、堤防に柔らかく当たっている。
言葉にしなくてもいい時間が、ゆっくり流れていく。
さっきまで胸の奥に引っかかっていた棘みたいなものが、少しだけ丸くなった気がした。
半歩先を歩く背中を見ながら、俺はふと思う。
——まだ、知らないことばかりだ。
それでも、今は無理に聞かなくていい気がした。
聞くべき時は、きっとまた来る。
夜はすっかり深くなって、海と空の境目が分からなくなっていた。
俺たちは言葉を交わさないまま、ただ並んで歩き続ける。
その静けさが、不思議と心地よかった。
次の一歩を踏み出す音だけが、やけに鮮明に響いていた。
——この夜が、少しだけ何かを変えた気がした。
「なあ」
「なに?」
彼女はずっと俺の半歩先を歩いて俯いて、顔は見えない。
声色はいつもと同じなのに、嵐の前の静けさのようなざわめきがある。
これから俺が何を言おうとしているのか分かってるみたいだった。
そうだとしても、聞かずには居られない。
「記事、ってなんだよ」
「何って?」
「いや、」
彼女は、俯いていた顔をふと海に向けた。
聞かれたくなかったと、言ってるようだった。
聞いたことを少し後悔した。無理やり聞いても、彼女を傷つけるだけなのではないか、と。
でも、彼女の話を聞かずして、俺が勝手に解釈するのはやっぱり違う。
「ソラって誰だよ」
彼女が話したいと思うまで急かすのも、質問で攻めるのも、どれも正しいとは思わなかった。
俺は、ただ、黙っていることしか出来ない。なんと声をかければいいか分からなかったから。
「…口下手通り越してド直球だね」
想良は、あははっと声を出した。でも、目は笑ってない。
「私だよ」
「え?」
間抜けな声が出た。
「私、あの、ハマダ ソラだよ」
「えっと…どの、ハマダ ソラ?」
「え?」
今度は彼女の方が間抜けな声を出して、振り向いた。ぽかんと口を開けて俺を見つめている。
「あ、もしかして俺と知り合いとか?」
しばらくぼーっとした後、彼女は破裂するように笑った。
「そっかそっか!君は“そういう人”だったね!」
(いや、どういう人だよ…)
もしかして、人の名前すら覚えられないような非常識なやつだと思われているのか?
「普段は名前忘れたりしないんだけどな。…いや、悪い。正直に言うと、父さんの仕事の付き合いで、顔見知りは覚えきれないくらい居るんだよ。会社の名前とか教えてもらえれば、分かるかも」
それを聞いた彼女はさらに声を上げて笑う。
「違う違う!知り合いじゃないんだってば!あーお腹痛い」
本当にどういうこと?
でも、とりあえず知り合いじゃ無いって事だよな?
「ほんとに君って…」と小さく呟いて、ふふっと笑った。安堵のこもった声がごぼれる。
「じゃ、名前、ソラだから。よろしくね」
「っよろしく。あ、おれは、」
「沖野 凪希!」
彼女は俺が言うより先に、にっこりと笑って言った。
「…え、なんで?」
「この前、単語帳に書いてあったの見たの」
リュックの中に手を突っ込んで、単語帳を取り出すと、背表紙に擦り切れた文字で『沖野 凪希』としっかり書かれていた。
これか。じゃあ、名前知らなかったのって俺だけか?
(なんだ、教えろよ。そしたら、もっと早く聞いたのに。名前ってその人の象徴らしいのに)
ふと、陽太の言っていたことが頭をよぎる。
「あ…なあ、ソラってどんな漢字?」
「浜辺の浜に田んぼの田で浜田。あと、想像の想に、善良の良で、想良だよ」
浜田 想良。胸の奥でもう一度呟く。
広い価値観をもつ彼女に、ピッタリだと思う。
だけど、なんだろう。彼女は空というより、海のような感じがする。
底知れないほど深くて、未知で、幻想的。
海のような空ということか。
「由来は?」
また陽太の言ったことを思い出して、彼女に尋ねる。
「えー由来?…あー、みんなに想われるような素敵な良い子になってほしい、だったかな」
「ふーん」
うん、全然わからん。
やっぱり由来だけじゃ彼女のことが全然分からない。陽太のやろう、適当いいやがって。
「聞いといて興味無さそうだねえ。凪希くんは?由来」
「あー聞いたことないかも」
「はあ?私に聞いといてそれ?」
「いや、名付けてくれたのは母親のはずだから」
そう言ってから、少しだけ沈黙が落ちた。
想良は「そっか」と小さく頷いて、それ以上は何も聞かなかった。
波の音だけが、堤防に柔らかく当たっている。
言葉にしなくてもいい時間が、ゆっくり流れていく。
さっきまで胸の奥に引っかかっていた棘みたいなものが、少しだけ丸くなった気がした。
半歩先を歩く背中を見ながら、俺はふと思う。
——まだ、知らないことばかりだ。
それでも、今は無理に聞かなくていい気がした。
聞くべき時は、きっとまた来る。
夜はすっかり深くなって、海と空の境目が分からなくなっていた。
俺たちは言葉を交わさないまま、ただ並んで歩き続ける。
その静けさが、不思議と心地よかった。
次の一歩を踏み出す音だけが、やけに鮮明に響いていた。
——この夜が、少しだけ何かを変えた気がした。

