海に凪ぐ、君の名前

『君がそれを不誠実だと思うなら、好きだと思った1人に、みんなにあげない分の大好きって気持ちを向ければいいんだよ。それは、最低なんかじゃなくて、とても誠実なことだよ』

『言葉も世界もとっても綺麗でしょう?その美しさを、自分の言葉で誰かに伝えたいの』

彼女の、美しい感性に惹かれている。忘れられない。

あれから、あの笑顔と声がずっと脳裏に張り付いている。

「……ああぁ」

情けない声が漏れる。

「んー?どうした、凪希。英語、そんなに難しいのかよ」

一緒に教室で勉強をしていた陽太が顔を覗き込む。

まあ、陽太に関しては、教科書を閉じたり開いたり、スマホをつけては消しての繰り返しだ。つまり、勉強していない。

「え、解けてるじゃん。なに、どしたの」

「んー、べつに?」

なんだか脱力してしまって、机に突っ伏す。

あれから数週間が経って、期末テストが近ずく時期になった。

あれ以来、あの場所には時間がなくて行けていない。

視界はしっかりとしているのに、教科書の文字がものすごく近くで、ぼやけるようにみえる。

蝉の鳴く声も、すごく遠くに感じてくる。

頬に触れる机がクーラーで冷えていて気持ちいい。頭が、ぼーっとしてくる。

「あっそ…あ、じゃあ自販機行かね?俺、喉乾いたわ。今なら奢ってやらなくもない!」

いつも明るくみんなの中心にいる陽太だからこそ、俺がいつもと違うことにも気づいてしまうんだろう。

陽太は気を使ったように明るい声を出す。

このぐるぐると巡る思考回路が、陽太の優しさに触れて和らいで行く気がする。

「ありがと。コーヒーがいいな」

「甘ったるい、いちごミルクにしてやる」

そう言って、陽太は突然走り始める。

「え!ちょっと、」

思わず、俺もその後を追うように走った。

自販機には、やはり陽太の方が早く着いて、俺が陽太に追いついたのはパックいちごミルクのボタンを押した後だった。

「はい、ご希望のいちごミルク」

「ありがとうだけど、頼んでないよ」

甘い物、嫌いなんだよなあ。

「うるせーな、俺は好きなんだよいちごミルク。飲んだら、すっきりするぞ」

しぶしぶストローをさして、薄ピンクの液体を吸い上げる。

(うっわ、甘!)

こんなに糖分を摂ったのが久しぶりすぎてくらくらする。

最後に飲んだのはいつだ?

(……最後に飲んだのって、陽太とじゃん)

陽太と仲良くなったのが1年の今頃で、ちょうどその時にいちごミルクを貰ったんだった。

教室で、放課後一人で勉強していたところに、このパックのいちごミルクをくれたのが陽太だった。

非行そうな見た目をしていてびっくりしたけど、関われば関わるほどに、陽太の良さは分かってくる。

みんなの中心で、みんなを率いているようなやつだから、一人でいた俺にわざわざ話しかけてきてくれたんだろう。

気が利くのだろうなと思った覚えがある。

真逆に見える俺たちがここまで仲良く居られるのは、陽太がとても優しいからだと思う。

「陽太ってさ」

「ん?なに」

ピンク色の甘い液体が口の中で、柔らかく揺れる。

「好きな人ができたらどうする?」

つい、そんな言葉がこぼれた。

「あー…」

少し考えるような顔をして、手に持っていたいちごミルクをぐびぐびと飲み干した。

こいつ、まじか。半分以上残ってたよな、それ。

陽太は、空になったパックをゴミ箱に投げ、それがガコンと音を立てて吸い込まれるのを見て「ナイスコントロール」と小さく笑った。

「そいつに、名前の由来を聞く!」

「は?なにそれ、真面目に答えてよ」

「大真面目だよ!」

陽太は銃を構えるようなポーズをして、俺に人差し指を向けて「バンッ!」と言う。

「だって、名は体を表すって言うだろ!それだけでその人のことを知った気になれるんだよ。その子の親がどんな思いを込めたのか、それをどう捉えてるのか、雰囲気とか、性格とか」

「名前の由来だけで、そんなに分かる?一つ一つ質問したって難しいじゃん」

まあな、と少し考えるように腕を組んで唸る。

言っていることが深すぎて分からない。

「じゃあ名前の漢字を説明する時、凪希はなんて言う?俺は『陽だまりみたいで、太っ腹な男です!』って言うよ」

「うーん…、凪に希望、とかかな」

「ほら、これでも分かるじゃん」

「え?どこが」

分かんないか凪希には、と眉を下げて笑う。

なんだか、子供扱いされたみたいでイラッとする。

「名前だけじゃわかんないよ」

陽太は、ははっと笑って、ベンチに腰掛ける。

「名前って、その人の象徴なんだよ」

「そういうもん?」

「聞いたらわかるよ。聞いてみろよ、その子に」

うん、と小さく返事をしたものの、なんとも腑に落ちない。

というか、そもそも名前も知らないし。

「つーかさ」

何も言えずに、いちごの印刷をされたパックを見つめていると、陽太が口を開く。

「初めてだよな」

「なにが?」

「凪希が自分のことを話すのがだよ」

「そんなことないでしょ」

「自分で気づいてないだけだよ。俺はすげぇ嬉しいんだけど」

自分で言っておいて照れたのか、陽太は1口目から進んでいない俺のいちごミルクを奪い、ごくごくと飲み干した。

甘いものが嫌いな俺にとっては、そんな様子に苦笑いも出来ない。

「なあなあ、どんな子なの?名前は?」

さっきまでの少し大人びた陽太の顔とは打って変わって、いつも通りの顔で、というか少し馬鹿にした表情だ。

どんな子なのか。

そう尋ねられて、「好きな子が出来たら」なんて聞いた自分に恥ずかしくなる。陽太から空になった容器を奪い返し、俺もごみ箱に向かって放った。

「何も知らない。あー…年上?」

空になった容器はカランと軽い音を鳴らし、床にころがった。ゴミ箱にゴールインとはいかなかった。

「なんだそれ、一目惚れ!?凪希が!?」

動揺しているのが自分でも分かる。

うるさいな、詮索しないでくれ。

「ちがうけど、ちがくない」

転がった容器を拾い上げて、ゴミ箱の近くにまで寄って放り込んだ。

「なんだよそれ、意味わかんねえな。はっきりしろよ!」

「はいはい。教室、戻ろう」

陽太は駄々をこねたが、それを無視して教室に向かった。



どんな子なのか。



そう聞かれも、一言でなんて、表せない。

俺を見透かして、踏み入ってきて、乱してきて、そして俺の海を凪にした。

これを、一言で表す方が失礼な気がする。

いや、彼女なら、彼女のような優しい心を持つ子なら、言葉で表現することができるのだろうか。

というか、俺はそもそも一言で表せるほど、彼女を知らない。

俺から見た、彼女しか知らない。

彼女は、どんなものに心を動かされるんだろうか。

俺から見た彼女じゃなく、彼女から見た彼女を知りたい。そして、彼女から見た、俺のことも。

彼女の、美しい目にはどんなものが写っているんだろう。きっとそれはキラキラの宝石箱のような世界だ。

知りたい、全てを分かりたい、受け入れたい、受け止めたい。

彼女に、今すぐにでも会いたい。

会って、尋ねたい____君の名前とその由来を。